優しい人が損をする世界だけれど。
「ふざけんじゃねーよ!」
店員の対応が気に入らなかったおっさんは声を荒げて言う文句。
その主張が正しくなくても、その場を沈めるために正しい方が我慢をしなければならない。
こいつが周りからどんな軽蔑の目で見られようが、本人が気にならなければ結果的に得をしたのはおっさんの方だ。
「絶対にいやだ!」
これまで望み通りにさせているのに、自分の損が確定したときには自分はやらない好都合人間。自分のワガママが許される環境で生きれてきたアマちゃんだ。
こんなのがいると正義なんてものはなくなって、言うことを聞いてあげないと進まないから結局正しい方が本当は声にしたい罵声を飲み込む。
こうやって世界は回っている。
ほんの一握りの畜生のせいで、多くの人が自分を殺して生きている。
自分のワガママが通ずのに誰かを犠牲にしていることに彼らは気づかない。
これだけ無秩序で道徳心のないような人が許されるなら、相手の顔に拳をぶつけてもおあいこでしょう。本気でそう思う。
歯には歯を、暴論には暴論を。
なんでこれがダメなのか。
物事が終わってしまうから?法律が許さないから?
いやいや、頭のおかしい人を裁いてくれよ。
自分勝手に生きている人はその場で現行犯逮捕のように取り押さえられればいい。
言葉を選ばずに言えば、みんなで切磋琢磨している空間にお前はいらない、出ていけ。そう言ってしまいたくなる。
でも、それはしない。そうじゃないと何かしらが終わってしまうから。
結局我慢しなければいけない。
そんな、ワガママな人が得をして、優しい人だけが損をする。
これがこの世界を成り立たせている裏側だと思う。
ずっと我慢してやっていれば必ず報われる?
いや違う、ワガママを言った人がその場で損をしないと気が済まない。
時間が経って、自分が優位に立てたら解消されるものじゃなくて、”あのとき”に直接タイムリープして思う存分血眼で思いのままに声を荒げてやりたい。
気づいていない、あるいは見ないようにしているだけで、みんな心の中にそんな自分を飼っている。
そんな僕たちは、いつしか「我慢した方が楽だな」と気づく。
おかしいでしょ。それが大人だねって言われるんだから。
じゃあ生活が自立したおっさんたちはどうなんだ。
あれも紛れもない大人でしょう。
えらいねえらいねって、そんな言葉はあの時の自分を救うものにはならなくて、じゃああの理不尽な輩は一体誰が裁いてくれるんだ?
まるで幼い頃の「先生に言ってやる」が恋しくなるような気持ちになって、あの時我慢したのにこの「大人な対応」が褒められることで2度自分を殺したことになる。
独りよがりでワガママを言い続けた人はいつか痛い目をみる。そんなことは知っている。
じゃあワガママを言われてきた当人たちは、沸騰寸前で火を止めた自分を、どう認めてあげればいいのか。
僕が出した答えは、自己愛だ。
他人から忍耐を褒められても、受け入れたくない自分に気づいて嫌になる。
だから、自分は理不尽星人に耐えられたとき
「自分ってこんな人を気持ちよくさせて終わらせられる人間だ、よかった」
と済ませる。
ここに心の汚さがあることは否めない。
でも、言葉にはせず思うだけならタダでしょう。
自分が受けた害を思い出して、あの時やり過ごせた自分に酔うことくらい罪にはならないんじゃないのかな。
そうやって殺した自分を弔って、我慢できることを武器のように思えたら「経験できてよかった」って感じられるかもしれない。
あのときのワガママさんを裁いていたら、今となりにいてくれる人はいなかったかもしれないしね。
感情を犠牲にして得るものは、その時は気づけないかもしれないけれど、未来への投資をしていると思いこむしかないんだよね。
これでもまだあの時感じた憤りをチャラにはできないけれど、恨むくらいなら今自分がしたいことに時間をつかった方が幸せでしょう。
そんな人が自分の視界に入る中で生きているんだったら、辞めてしまった方がいい。
人はそれを逃げたって呼ぶんだろうけどそうじゃない。
アイツから人が離れていっただけ。
人に迷惑をかけてワガママをいうんじゃなくて、自分の権利の中でワガママに生きるのならそれは自由だ。
逃げたとしても昼間やっていたニュースはどうせ明日もやるし、どっかの貧しい国の子は明日も苦しむんだから、それほど世界は変わらないもんさ。
自分の小ささを知ったら不思議となんでもできる気がしてくる。
周りに迷惑がかかるんだから辞めないでって言うなら、その原因を潰してから言ってくれよな。
人に優しくする時は自分を傷つけることもあるから、どっかで採算合わせていきたいですね。
また明日!