無感情人間からすると、感情的な人がたまに羨ましかったりもする
ほとんど感情が動かない。
感情が動くことだってあるけれど、それが表情や声にうまく乗らない。
こんな悩みを抱えております。
正直、便利なこともあるのですよ。
何かに感情的になって行動をすることはほとんどないし、物事を冷静に判断できることが多い。
でも本音をいうと、感情的な人がちょっぴり羨ましかったりもする。
小さいことに感動できない。
いいなって思っても、自分を興奮させるものは滅多にない。
もっといろんなことに感情を動かされ、怒ったり泣いたりしたい。
普段はそんな姿を見せるのはかっこ悪いと思うけれど、稀に人間味があって素敵だなって思うこともある。
楽しい以外の感情が動くことが少ないし、感じたとしても表に出てこない。
それが今、自分のことを面白くないと思う最大の悩み。
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きっとこうなってしまったのは、周りに感情的な人が多かったからだと思う。
反面教師という敵視したような厄介な感情ではなくて、きっと根本は面倒なことは避けたい性格だから。
だからこそ、自分が我慢すればいっか。を繰り返してきた。
人の慣れる力はすごい。
小学生までははみんなと同じようにわがままに生きてられた。
でもそれ以降は、気付いたら顔色を伺う毎日。
考えを曲げない脳筋な大人や、ヒステリックな人なんかもたくさん見てきたのです。
そんな人と関わってある日確信してしまった。
この人たちに労力をつかうより、耐えたり無視した方がよっぽどいいなって。
そうこうしているうちにまた気付いた。
あ、感情的まではいかないけれど、自分の意見を頑なに主張する人の方が世の中には多いんだなって。
気付いたらもう戻れなくなっているわけですよ。
人を怒るなんてできないし、わがままを通すってことは誰かが我慢しているってことを誰よりも知っているからね。
でも少しのわがままを言っても誰からも嫌われずに上手に生きている人を見ていたら、これは我慢づよさでも優しさでもなくて、ただ逃げているのと変わらないことにも気付いた。
何から逃げているかというと、嫌われることから。
自分は使ってもらったり利用してもらうことは嫌いじゃない。
でも、自分が奉仕したいと思える環境には、必ず自分が生きやすい空気をつくってもらっていた。
この空気ってのは、自分が少し要望を言っても嫌われないことが分かりきっている場所。
でもこんな居心地のいい場所に長居すると、外で生きられなくなる。
というか昔からそうだった。
学校で生きやすい場所を見つけては、卒業かなんかで終わってしまう。
新しい環境に入ってからまた探し続ける。
一見誰もがとる当たり前のように思えて、「独りが怖い」じゃなく「嫌われない」を探していた。
耐えられる強さのように見えてただの弱さなわけなんだけれど、歳をとるにつれてけっこう生きやすくなった。
それがいけなかった。
もちろんいいこといっぱいある。
でも、これがいいんだと味をしめてしまった。
自分を抑えることと引き換えにね。
これまた慣れてしまったもんだから、心を殺すことがついに自分の”当たり前”に昇格しちゃうわけです。
今はそれなりに解決法を見出したけれど、感情が置き去り。
こうして無感情人間が出来上がってしまったのです。
プライドのプの字もありゃしない。
特に困っていないんだけれど、感情を思いっきり出せる人がカッコよくて仕方がない。
たぶん適応能力みたいなものは高い方だと思うから、感動できそうなものに触れる機会を増やしたいって無意識に思っている。
職に就かなかった一つの理由として、日常の感動にたくさん触れたいからってのもある。
喧騒はなるべく排除して、自分がおもしろいと思うことに力を注ぐ。
感動できて、それが表に出てくる自分になることが漠然とした目標なのです。
感情と向き合って楽しいことたくさんしよう。
感情的な自分を探しにいくわけです。
おもしろい毎日を探すためにいろいろ準備中なので楽しみにしております。
明日もいい1日を!!