”飲み行こっか”ができない酒飲みの僕が気づけたこと
酒が飲みたい。店で飲みたい。
まるで酸素と二酸化炭素を入れ替える呼吸みたいに、1日の疲れや日頃の鬱憤を吐き出して、その代わりに喉に酒をデタラメに流し込みたい。
物事の判断がよく分からなくなってきた頃に、後々恥ずかしくなるほど感情に任せて意味のない会話がしたい。
とは思うのだけれど、酒のない世界もそれはそれでアリだなと思ったことがあった。
先日、ずっと会いたくて会いたくて仕方がなかった人に会ってきた。
空白の期間にあったお互いのことやこれからのことを話した。
久しぶりに見たその人は前よりもちょっぴり大人になっている気がして、知りすぎているくらいの人なのに新鮮ですら感じられて。
「変わってしまったな」とは違う変化の心地よさに身を委ねて話していたのです。
それもお酒なしで。
高校時代から長い時間を過ごしていたから素面でも話せるのは知っていたし、お互いの歴史に重要人物として登場するほどだったけれど、なんとなく思った。
「あ、自分が何を感じているかがわかる」
お酒が当たり前に飲めた頃は一種の媒体でもあった。
人とコミュニケーションをするときに心を通わせるための道具の一つとして。
「乾杯はセックスだ」
この言葉は偉人クロカワ=マオが残した言葉だけれど、恋人が愛を確かめる行為のように
「私はあなたに心を許して語らいをしよう」というメッセージを込めた行為だと思っている。
でもその時は、乾杯がなかった。
酒がなければ話せないなんてことはない。
卓上の花瓶に花が生けてある方が食事が華やかになるくらい。
なんだろう、お酒がない状態で語り合うことに慣れていなかったせいか、自分が感じていることがはっきりとわかるような気がして。
もちろん酒を流し込んだときの方が心の起伏はあるのだけれど、それと同時に判断能力も下がるから。
思えば気持ちよく酔っ払ったときの感情たちは今も同じように感じることができない。
そのときも、これを書いている今も、自分・相手・空間すべてを、一寸の狂いもなく味わえるんです。
これがとても嬉しくて、その人は無感情の僕の心をいとも簡単に揺さぶることができる人だから、そんな自分にも気づくことができた。
これって酒が当たり前に出てくる状況だったらきっと気づけなかった。
もちろん常に飲みたい自分がいるのだけれど、妥協じゃなくてあれはあれで至福だった。
そのとき行ったのは水タバコ屋さんだったけれど、あれはすごいな。
何回か行ったことがあるけれど楽しみ方がずっと分からなくて、「チル」ってなんじゃという感じだった。
店内の雰囲気もろともちゃんと考えられていて、スーパー銭湯に行ったときみたいな癒しの空間に近かった。
そもそも喫煙者だから味がする水蒸気にお金を出すのが分からなかったけれど、空間を買っているんだなと思ったのです。
店員の兄ちゃんもぶっきらぼうでタメ口で接客するような感じでね。
そういうのは結構好きだから、居心地いいけどちょっと怖いなとも思ってて。
でも寒いなーと思って肌を擦っていたらブランケットを手渡してくれるような一面にしてやられましたな。
なんの話しているのか分からなくなってきた。
とにかくどこか酒頼みなところがあって、飲みながら語りあうことこそが乙だと思っていたけれど
そうとも限らないんだなと。
シラフだからこそ自分の気持ちが手にとれるんだなと思ったのです。
「これがないとできない」ことから一旦離れて
それナシでやってみるとまた新たな気づきが生まれるかもしれないですね。
こうやって関係なさそうなことから学びを得られるのは自分の面倒くさいところでもあり、長所でもあるのかな。
今はブログサイトを制作中なので完成したらエッセイの連載でもやってみたいな。
それではまた!
【女性差別】リアルな体験を集めてみたら想像以上に死活問題だった件
近年いろいろと多様化なり平等なりが話題になっていますが、ふと気になりました。
女性差別・軽視に関して自分は絶対に被体験者にはなれない。
社会的にはどうのこうの言われているけれど、現場レベルでは何が起こっているんだろうと。
ということで先日、僕の公式LINEで女性差別を受けた経験を募集してみました。
最初に僕のスタンスを示しておくと、今回声を届けてくれた女性たちを味方にして
「女性差別はダメだー」とか「女性の権利を迫害している」みたいに強く主張する気はあまりないです。僕が言っても説得力に欠けますしね。
一個人を見たときにどんな女性差別を受けた経験があるかを、学びのために知ってみたかったというだけです。
そして女性差別(軽視)に関する僕の見解は
「ぶっちゃけ男性差別も存在するよね。ただ、総合的に”どっちが不利か”を考えたら女性は生きづらいだろうから変えた方がいいよね」です。
送ってくださった声の要約と僕が思ったことをお届けします。
1人の若造の学びの共有としてお付き合いください。
学校編
まず最初に少し驚いたこと。
学校現場で差別を感じた声が多かったです。
公式LINEを登録してくださっているのは学生さんの割合も多いということもありますが
女性差別はなんとなくのイメージでアルバイトも含めた仕事現場や家族間で起きていることだと思っていました。
でもそうではなくて、幼い頃からステレオタイプの押し付けをされていて、その時期から苦しんでいるということに気づいてハッとしました。
【学校の進路相談】
高校卒業後の進路相談のとき、自分の学力よりも偏差値がかなり高い大学へ行こうと先生に相談しました。学力的な面でもっと下の大学を目指したほうがいいと言われてそれは間違っていないと思ったのですが、先生の「女の子なんだからそんなに頑張らなくても」という何気ない一言に傷つきました。
女性は結婚して家庭に入るからそこまで努力しなくてもいいという意味で先生は言ったのでしょうか。
これは典型的な軽視ですよね。。。
個人で「男は仕事・女性は家事育児」という古い考え方をしている分には勝手にしろと思いますが、それを人に言ってしまうと軽視になってしまいますよね。。。
この後この方がどうなったかはわかりませんが、思春期の頃からこれを言われてしまうと可能性を潰してしまうような気がします。
【体育の授業①】
やるときに男子のペースに合わせて腕立てや腹筋、拝金をやるので女子は全然ついていけません。他の人から見て、どう感じるか分かりませんが私は少し不利というか女子にもペースがあるのでどうなのかなと思ったので書きました。
【体育の授業②】
女子は回数が少ないと思うから膝立ててやってオッケー。男子は腕立て伏せでなければダメ、回数が少ない人は焦れ。
この言葉には「女子にはできない、男子なんだからできる」と言うように聞こえて、女子目線でも男子目線でも嫌な気がしました。
この2つを読んでどう思いましたでしょうか。
男女間で身体的な違いは確かにあるので、そこを配慮するかしないかの話ですね。
差別とは少し違うかなとも思ったのですが、 とても大事なことだったので取り上げさせていただきました。
これはおそらく「区別」に該当するものだと思います。
お2人の気持ちをまとめると
①のご意見は「男女の違いを考慮せずに平等にしてしまう」もの
②は「男にはできて女にはできないという考えの押し付け」です。
感じ方の違いなのですが、「差別と区別の違い」を考える上でとても肝になる部分でもありますよね。
直接差別的な言葉を浴びせられていなくても、明らかにある男女の(今回は身体的な)違いを埋めることはどうなのかが最大の争点です。
平等の先にあるものは何か。
それは、同じ土俵で戦わなければいけないという側面があります。
たとえるなら
「重い荷物は男の子に持たせたほうがいいよね」なのか
「女の子は重い荷物を持てないから男の子に持たせよう」なのか。
この微妙に違うニュアンスを一歩間違えると、いくら身体の差であっても差別になりかねない。つまり、区別を押し付けると差別に変わるということです。
たしかに、男女で役割を分けたほうがいいときもあれば、同じにしたほうがいいこともある。
差別と区別は表裏一体なんだなと、このお2人のご意見から学びました。
職場編
職場には生活に必要なお金が関わっているだけあって、女性差別による働きづらさはより深刻になるのでしょう。長文送ってくださった方が多かったです。
【アルバイト】
学費を稼ぐため、アルバイトをしている女子大生です。
先週までは時給の高い夜間のシフトに時間の許す限り入り、なんとかやりくりしてました。
ですが5月に入ってから「女性に夜遅く働かせるのは良くない」という、新しく入った男性の店長の考えにより、事情を話したのにも関わらず夜間のシフトを減らされ、生活もままならない現状です。
不当な扱いではなく 店長の優しさだということは分かってはいるのですが、はっきり言うと「ありがた迷惑」に感じてしまいます。
辞めて別のバ先を探せば良いと思われるかもしれませんが、コロナ禍により、今より高い時給で新しく雇って下さるところを探すのは容易ではありません。
何より店長も周りの人も親切な人ばかりで居場所が良くてすごく楽しいので辞めたくないんです
もう少し融通がきけばなぁ、、と思う今日此頃です。
これは死活問題ですよね。。。
一見優しさのように見えて本人からしたらありがた迷惑にすら感じてしまうこと。
女性だからという理由で働きづらい結果になってしまう。
女性ということを理由にした一方的な優しさの押し付けも一種の差別になってしまうんですね。
肉体的な力の差以外の理由で性別を理由に不当だと感じた方は他にもたくさんいらっしゃいました。
【職場】
職場にて
・来賓へのお茶出し、接待の強要
・女は黙って言うこと聞いてろ、俺に意見するなと言われ発言権がない
・男性の職員とは対等な立場で話をしているのに女性には上から目線、自分と違う意見だと怒鳴る
・女性は感情的だから話にならないと言われる
こんな典型的な女性差別をする人が実際にいるのか...とびっくり。
「女は感情的」という説があって脳ミソの中に違いがあるとかどうのこうの言われていますが
そんな言葉を実際に人に言ってしまう人のほうがよっぽど感情的で「そうじゃない人もいる」ことを全く知らない世界の狭い人でしかないですな(ワンパン)
職場で感じた差別は1番多かったです。
中にはリーダーはなぜか男性がやるという風潮に対するものも。
女性の方が知能指数が高いという研究もあるけれど「威厳」の問題なのかもしれませんね。まあ性別だけで判断するのもどうかと思いますが。
仕事と育児編
これは黒川の立場からは1番遠くてとても勉強になりました。
こんにちは。
女性として不利と感じたのは、産休育休があることです。
どんなにキャリアを積んだり努力を重ねても、産休育休という休みのせいで、昇進は途中でリセットされます。
「産んですぐ復帰すればギリセーフ」
でも、自分の体のことだけど自分で決められないのが出産。
私だってすぐ(一年以内)に復帰して、昇進のレールから脱落しないようにしがみつきたかったけど、子宮の中の赤ちゃんにそれは関係ないんだよね。
病院から切迫流産だから自宅療養ってドクターストップが出てしまったら、産前休暇だけで半年は休むことになる。
そのあと、無事に出産できても育休という基本一年の休みがある。
一年以内に復帰できるのは、実家のサポートが厚い家庭だけ。
実家と仲が悪かったり遠かったりしてサポートが受けられないと地獄。
仕事どころじゃないのが本音。産休育休×2人分で、約3年は職場から離れてたことになるでしょう?
そしたら、職場の人間関係も仕事の流れも、すべて変わってて浦島タロ子だよ。
それでも年次だけは重ねてるから、周りからしてみれば「10年勤めてるのに、なんか全然使えない」「すぐ帰るしすぐ休む」「頼りにならない」
そういう風に思われてるんだろうな、ってずっと負い目感じながら毎日働くのすごくしんどかったな。
男には産休育休ないんだよなー。
同じ年次なのに。
産休育休なければ、私だって今頃あの役職なのにな、って。
そうか、育休ってとてもいい制度だと思っていたけれど、キャリアを切り取って考えたら不利なのか。
ブランクがあると復帰したときにそれだけ環境が変わっている。
そのせいで仕事と子育ての両立が物理的に難しいという発想はありませんでした。
仕事以外でも差別をされたら嫌な気持ちになるのは当然ですが、差別的な結果になってしまうことが「仕組み」の中に組み込まれていると実害になってしまうようです。
最後に
最近、大学の授業でジェンダー論の女性差別問題について学んでいます。
その中で統計やデータでは女性が不利なことがわかるけれど、現場レベルではどんなことが起こっているんだろうと思い立って今回みなさんの声を集めてみました。
今回紹介したご意見の他にも、たくさんのお話をいただきました。
ますはありがとうございます。
僕自身、あまり年が離れた人がいる環境で活動するのを若干避けてきたので、女性差別を目の当たりにしたことがほぼありません。
かといって、必ずしも年代の問題だけとは限りません。
誰しも「〇〇はこういうもの」という固定観念を持っています。
正直、どんな人にも傷付けないように配慮するのは限界があります。(女性の社会的立場を底上げすることに反対する女性もいるくらいです)
なので男女に関わらず、自分の中のステレオタイプと異なる対象をみたときに強要しないくらいの器の大きさは確保しておきたいものですね。
「男は〇〇だ・女は〇〇だ」と人にぶつけてしまう人は、主語がデカすぎます。
そう言い切れてしまうほど自分が出会ってきた母数(サンプル数)が少ないことを豪語しているのと同義です。
自分で言うのも変なのですが、勢いとノリで飛び込んでしまう性分からか、僕は同年代から相対的にみてかなり友人が多いです。(良いか悪いかは置いておいて)
そんな僕が一言言うとすれば
「何事も一概には言えない」だけです。
もちろん傾向からして「男性(女性)はだいたいこうだよね」って言う考えは僕にもみなさんにもあります。
例えば友達と恋バナをしている中で「男ってバカな生き物だからさ」とユーモアを交えて言うのは良かったとしても、仕事現場でそれを言うのは違います。
こんな風にTPO人によって感じ方は全く異なるので
本当の意味で「世の中にはいろんな人がいる」ということを言葉だけではなく自分の経験から割り出す作業があるかないかでかなり変わってくると思います。
なので、ジェンダーについて決めつけてきたり強要する人は「経験不足」以外の何ものでもありません。
経験から学んでも世代によって変わっていくので、おじさんおばさんになっても常に吸収力を持って生きようと思うしかなさそうですね。
権利を主張することはとても骨が折れる行動です。
一歩間違えたり的外れな意見を言う人がいるせいで、一括りにしてバカにされる対象になったりもします。
「まだそんなこと言ってるの?原始時代かよ」という空気感が1日でもはやくできればいいですね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
こんな感じで公式ラインではたまにコラムを書いたりみなさんの声を聞いたりしていますので、気になった方は登録をしてみてください。通知が厄介な方は即ブロでかまいませんよ〜
エロと感情は「見えそうで見えない」が1番いい
ブログを書いていてこんな事を言うのも変なのですが、言葉で伝えることがとても苦手です。というより嫌いに近いかもしれない。
自分の力不足はもちろん、言葉にしてしまうとその時の感情が一気に薄っぺらいものになってしまう気がして、そうして劣化してしまうのなら声にのせない方がよっぽどいいと思ってしまいます。
カッコつけて言えばあえて言葉にしない美徳という感じですかね。
言葉で伝えるのが苦手なもう1つの理由として、100%完璧な状態で相手に伝わることはまずないからです。
言葉や文字なんてものは所詮コミュニケーションツール。たかが記号の羅列なわけです。
どんなに想いを込めて、言葉に温度を吹き込んだとて、相手の心を動かすことはできても感じ方は人それぞれ。
「そういうことが言いたかったんじゃないんだけどな」という気持ちは、今後どんなに言葉が磨かれていっても起こることです。
この相違が、僕にとっては虚しくてしょうがない。
どんなに上手に伝えられても100人が100人同じ意味・感情で受け取ることなんてのは無理なわけです。
こんな当たり前の事実に僕はいつも辟易します。
いつも言っていますが顔や表情で表現するのが苦手だから誤解が生まれやすい。
だったらもう言葉にしないでずっと大事に秘めていた方がずっと幸せだと、そう思うのです。
だから必然的に、僕は冷たくなるのでしょう。
たとえば友人が悲しんでいたら「大丈夫?」と声をかけることはしません。
話を聞いて慰めることもあまりしない。
くだらない話で少しでも忘れさせたり、とりあえず飯に連れていったり、そんな”結果”をあげるだけです。
得に心配そうな態度をとることもしないので、人によっては薄情に見えるでしょう。
でもそれでいいと思っています。言葉ではなく少しでも相手の状況が好転すればいい。
それが僕の身勝手な愛情でもあります。
言葉が欲しい人がいることだってよくわかっています。
まいっているときの優しい一言に救われたことは僕にもあります。
でも、僕にはそれが得意じゃない。
きっと言葉で伝えても、声色のせいで相手に響かないかもしれない。
だから、言葉で届けるのは最終手段にして、ほとんどは結果をあげるだけ。
僕にはそっちの方が得意だし、言葉をあげるだけじゃ解決できないような域に渡って実際に助けることもできる。
そんな性分なんです。
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これはきっと、エロと同じだと思います。
エロは、見えそうで見えないのが1番エロい。
今僕が何を感じているのか。
怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか。
それが簡単な言葉で表されてしまうと、とってもつまらない。
これがこうだからこんな風に楽しいんだと思っても、短絡的に行われる日常会話の中では「楽しい」という言葉ひとつで終わってしまう。
それはなんだか下着を通さずにいきなり裸を見せられているみたいで、全くそそられないじゃないですか。
だから僕は「見えそうで見えない」を独りよがりな美徳として大事にしています。
じゃあなんでそんな僕が文章を書いているのか。
それは「言葉で伝えることを忘れないため」に他なりません。
僕が筆を握る1番の理由は、感情を表現できて言葉で伝えられるような自分になるための練習みたいなものです。人生の課題と言いましょうか。
もちろん言葉にしないこと自体を美徳としているけれど、言葉で伝えなければいけない場面もある。
そんなときに立ち尽くしてしまわないようにしたいのです。
街に出れば勝手に耳に入ってくる「若者ことば」の流行りとは逆行しているかもしれないですね。
感情的な自分を芽生えさせる手段として執筆を選びました。
それさえ達成できれば将来の安定なんてのは興味がなくなるくらい大事だったので、今こうして皆さんに見ていただける活動をしているわけです。
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エロの話に戻りますが「見えそうで見えない」は、万事においてとても大切なことだと思います。
応用しやすいように言い換えると「そこに至るまでの過程」が大事です。
見えそうで見えないと言っておきながら、行為中だったら最後にはちゃんと見えるじゃないですか。
あなたが好きな曲はただネット上で再生するよりも、それまでのアーティストの軌跡や苦悩を知っていたり、あなたの青春の1ページになった過去がある方が感情移入できますよね。
でも、それを知らない人がただ曲を聴いただけじゃそれは分からない。
一見すると分からない部分が1番美しいんです。
いきなり裸を見せるような人になるよりかは、僕はゆっくりと焦らしながら過程と見えない大切なものを大事にしたい。
きっと僕の一見冷たい振る舞いはそこからきているのではないかなと思います。
カラダの隠している部分も感情も確かにそこにあるんですよ。
だったら安っぽく出したりせずに、そそられた状態でチラ見えできるくらいが1番いいですよね。
何いってんだ俺
異文化に触れることは、価値観をインストールすることだ
知らない文化に触れることが大好きな黒川でございます。
文化といっても地方にある伝統芸能とかだけではなくて、その土地の慣習や常識も含めたことを指します。
なぜ僕が異文化に触れることが好きなのか。
そこには「価値観の拡大」があるからなのです。
異文化=自分には当てはまらない当たり前
ところで、文化とは具体的になんのことを言っているのでしょうか。
田舎町では「ご近所との交流が親密すぎてプライベートがだだ漏れだ」
高知県では「たっすいがは、いかん(≒酒が薄い飲み物はダメだ)」
はたまたどっかの大学のサークルでは「学生生活を捧げるのが当たり前」
これらがすべて文化なのです。
つまり文化とは「そこにある特有の当たり前」のこと。
外側にいる人間からみたら「そんなことないでしょ」 とか「意味が分からない」と一蹴されてしまうようなことが、当人たちには肝心なモットーだったりするのです。
そして「知っている」「わかっている」「経験したことがある」は全然違うということも言っておきたい。
知っている・わかっているのは、知識として頭に入っているだけで、直接文化には触れていません。
五感で触れて自分の中にはない”当たり前”を受け入れてみる。
この「異文化体験」のようなものがたまらなく好きなんです。
異文化体験は価値観トレーニングだ
文化に触れる=知らない当たり前に触れる
実はそう簡単なことでもないのです。
自分が大事にしていることが、ある文化ではどうでもいいことだったりするかもしれないし、無意識に自分の常識と比較してしまって下に見てしまう。
自分を正当化したくなる性がある僕らは、それを「自分には合わないもの」として消化してしまうことがほとんどなのです。だから難しい。
そうなると自分の人生が窮屈になると思った僕は、受け入れる力を育む訓練として色々なところに飛び込むようになりました。
「知らない価値観を当たり前として受け入れ、ものにする」
これが、価値観トレーニングです。
最初は正直趣味の一環でした。
知らない世界を「おもしれぇ」と思って何も考えずに飛び込んでいた。
そうしているうちに、どんどん「受け入れたくない考え方」がなくなっていく。
まるで子供の頃に耳が痛くなるほど言われた「相手の立場になって考えて」が本当の意味で自分の体の中に染みわたっていくように。
できるだけ多くの人の立場になることができれば、それだけたくさんの視点が手に入る。
相手の立場になって考えるというのは、実はもはや超能力みたいなもので、相手の文化を自分にインストールすることと同じだ。
これをできる人はとても少ないんじゃないでしょうか。
インストールできる感覚を少しづつ掴んできたときに思ったのです。
「あ、もっといろんな場所に飛び込んでいけばたくさんの価値観を手に入れられる。」
たくさんの価値観を手に入れることは、”一つの文化に定住しない”ことがマストだ。
テレビやネットから知識として頭に入れるのではなく、自分が経験する。
これを繰り返せば異文化の人間から話を聞いたとき
「へえ〜」と流していたものが心の底からの共感に変わる。
これが僕にとっての人生の豊さでもありました。
だから、いろいろな所に入ったり抜けたりした。
「あなたって続かないよね」とよく人から言われたものです。
異論はまったくないけれど、継続よりもたくさんの世界を知って価値観を広げ続けること。
これこそが僕が持っている文化だと思う。
そんな価値観トレーニングを繰り返して手に入れたもの
それは「こだわりのない自分」でした。
「こだわりがない」は、「なんでもボーッとしていてどうでもいい」ではなくて
「嫌いなもののこだわりが無くて何にでも適応できる」自分。
受け入れがたいものを見たとき、もっというと嫌なものを見たとき
あ、これもひとつの文化なのかと見方を変えられる。
この状態があると誰にも攻撃しない人間になれる?それだけじゃないのです。
何よりも自分が楽になれる。
食べ物に好き嫌いがない人は外食の店を選ぶときに食材で悩まない。
一緒に行く友達も気を遣わなくて済みますよね。
これが人間関係全般に広がっていく感じ。めっちゃくちゃ楽な毎日になるのです。
嫌いなものをなくしてこだわりのない人になる価値観トレーニング。
それこそが僕にとっての異文化体験の醍醐味なのです。
友達のアイドルのライブで感じた文化
僕にとっての「アイドル」は、小さい頃テレビに映っていたジャニーズや大人数の女性アイドル。
「手が届かない雲の上の存在」こそが自分にとってのアイドルだった。
でも、近年のアイドルはちょっと違います。
チェキが撮れたり、お金を払えば長い時間話せたりする。
距離が近すぎて僕にとっての「アイドル」とはかけ離れていて、ちょっと安売りしてしまっているのではないか、と心の奥底に引っかかっていた。
先日、アイドルデビューした友人のライブに行ってきた。
距離が近いアイドルのライブに行くのは初めてだった。
色々なグループが出る対バン形式のライブだったが、どのグループもパフォーマンスのレベルに素人ぽさは無く、無知ながらに感銘を受けました。
そしてライブ後の物販といういわゆるチェキ撮影の時間。
友人なのにチェキを撮るのが妙に小っ恥ずかしくて、これまでチェキを撮ってくれた人のメンタルはすごいと改めて関心したのを覚えています。
そこでまた知らない文化に触れる。
ついさっきまでステージの上で踊っていた人と会話ができる。
その体験はいくら友達であろうと嬉しかったし、応援したいと心から思えました。
外から見ていたときはなんで?そんなことしていいのかなあ?と思っていた文化が、体験することによってその良さを身をもって感じられた。
距離が近いかどうかのブランディングの話だからどっちが良いとかないんだと気づいたわけですね。
これこそが異文化体験の良さ。
友人に誘われなかったらそこに気づくこともできませんでした。
「なんでも知ってるつもりでも、ほんとは知らないことがたーくさんあるんだよ」
これもきっと知識のことだけじゃなくて、「知る」の先にある感覚も指しているんだと思います。
まだまだ知らない世界がたくさんあって、どんな文化でも楽しめる人になるにはまだまだ時間がかかりそう。
あなたは異文化(=あなたにはない当たり前) を、どのくらい受け入れられるでしょうか。
陰キャと陽キャは「優劣」を示すものではない、ゼッタイ。
「あいつめっちゃ陰キャじゃん笑」
「ウェイ系無理...」
こんな感じで、陽キャと陰キャはなぜか対立する関係にあります。
きっとお互いが「こうはなりたくないな」と思っているからなんですかね。
でも最近思うのです。
ってことは向いている役割も違うんじゃないか?と。
今回はそこについて追求してみたいと思います。
陰と陽はなにが違うの?
こんなことを言っておきながら、筆者の僕は陰キャと陽キャの違いがよくわかっていません。
なので、まずは両者の定義だけ簡単にまとめてから考えたい所存であります。
【陽キャ】
陽気な人。社会性が高く、人とのコミュニケーション能力に長けている。
類義語:パリピ、ウェイ系、外向的
【陰キャ】
雰囲気や性格が暗い人。自分に自信がなく、人とのコミュニケーションが苦手。
類義語:根暗、引っ込み思案、内向的
ソース:いろいろ黒川調べ
うーん、たしかにこれを見たら陽キャ優勢な気がしますな。
そして人間は自分に近いタイプの人を好む傾向にあるのでこれだけ違うと対立し合うのはわかりますね。。。
この定義を見たらおそらく黒川は陽に属するのでしょうが、あんまりウェイウェイするのは好きじゃないし
足元を蛍光色にしてクラブではしゃぐようなのは人間ではないので振り切った陽キャでもなさそう。
自分がどちらかは置いておいて、黒川目線でそれぞれにスポットを当ててみていきたいと思います。
それぞれの得意なこと・苦手なこと
陽キャといっても、さっきのようなクラブでワイワイしている人たりだけを指すわけでもなさそうですな。
陽キャはさっきも書いた通り、外向的だからコミュニケーションやリーダーになることに向いている傾向にありますよね。
ただ!ただですよ!
(たぶん)陽キャの僕から言わせてもらうと、「陰キャには敵いませんな」と思うことがよくあるんです。
例えば地味な作業。
裏方の事務とかあまり人前に出ないような淡々とした役割ありますよね。
あれ僕じゃ絶対に続かないです。苦痛で苦痛で...
でもそういった地味な作業は必ず必要なんですよね。
僕が今回もっとも伝えたいのは、「得意分野が違うだけ」ってこと。
コミュニケーションが苦手だから総合的に陰キャが劣っているみたいな雰囲気ありますけど、絶対違うからな!!
むしろ陽っぽい雰囲気あるのに何言っているか分からないヤツとか、むしろ見栄はってる人なんてたくさんいるから!!(昔の自分がそう)
正直に言うと、高校生の頃は僕も陰陽の概念はなかったけれど「よく見られたい」という気持ちに浸食されていました。
だからわかるんですけれど、たぶん世の中に真の陽キャって少ない気がする。
とにかく、陽キャと陰キャは得意なことが全く違ってどっちも必要なので対立すること自体がナンセンスだと声を大にして言いたいです。
そもそも陰か陽で人を判断することは相当視野が狭いことだと思う(急に毒を吐く)
陰か陽かで人を判断するとイタい目にあう
この世界はマジョリティが「常識」として君臨します。
じゃああなたがいつも敬遠している陰キャ(もしくは陽キャ)がこの世界の99%を占めたらどうなるでしょうか。
バカにしたままなら”使えない存在”になると思うのです。
例えば地味な人が多い業界で考えると...地道な作業ばかりするゲーム開発だとします。
彼らはたしかに陽気ではない人が多いイメージ。
でも陽キャが入っても地道なプログラミングは続かないですよね。。。
こういうことです。逆の状況でも然り。
要は、自分に居心地がいい場所に腰を据えて他者を見ているから対立するわけで
両者が共存しないと成り立たない空間では陰陽の概念はあっても対立はしないわけです。
苦手かどうかは人の自由ですが、どちらかが劣っていると考えている人は結構危ないかもしれないですね。
陰キャ(もしくは陽キャ)が重宝される空間にそうじゃないあなたが飛び込まされたとき、自分の弱さに気付きます。
そんな中で優劣を考えていたら素直になれずに人を見下したままになります。
だから世界が狭くなると思うわけです。
得意分野がそれぞれ違うんだったら、自分の武器と比べて安心しているよりも自分にはない戦闘手段を持っている相手を仲間にした方が絶対に強くなる。
そう思いませんか。
表面だけで人を分類するとせまい世界だけで生きていくことになるので、積極的に肯定してみる力は必要になってきそうですね。