第一印象でカテゴライズされると苦しくなることがある
「〇〇系が好きなんだよね」
自分に好意を向けてもらったときにこんな言葉を添えられることがある。
このとき、僕はこう感じる
(それって自分じゃなくてもいいよな)
こういうのが好きだからあなたが好き。
相手に悪気はまったくないのはわかる。
でもなんだか、その気持ちはこっちに届いてこない。
人には承認欲求というものがあって、噛み砕くと
「自分じゃなければいけない理由が欲しい」
ともとれると思う。
自分も例外なくそうだけれど
自分の好きなカテゴリーは〇〇だからあなたが好き
と言われてしまうと、中身を見てもらえていない気持ちになる。
嫌というほどじゃないけれど、まったく嬉しいとは思えない自分がいる。
それに対して、自分を知ってくれている人から「あなたって〇〇だよね」
と言われるのは苦しくならない。
ここの違いってなんなんだろう。
自分を知らない人から”こういうタイプの人”だと頭の中で早々に処理されてしまったことが苦しくなるんだろうな。
あ、もう中身はあまりみる気がないんだろうなって。
だから、冗談やネタで言われるぶんには全然いい。
人によっては嫌味に感じるかもしれないけれど、容姿ばかりを褒められすぎるのも同じ理由でちょっと寂しさを感じることがある。
容姿端麗な女友達が言っていた言葉を思い出す。
「男性はたくさん言い寄ってきてくれるんだけれど、カラダ目的だったり、私がどういう人かを知ろうとしてくれる人は少ないんだ」
これに近いのかもしれない。
容姿ありきの人気商売をしていたから、お客さんに言われて嫌だったということはない。
ただ、自分の存在意義を保つための媒体にされていると感じたことは正直あった。
こんな時も同じことを思う。
「それって俺じゃなくてもいいよな」って。
楽しみ方はお客さんの自由なのだけれど、それ以前にお互い人間で、接客というある種のエンターテインメントの範囲内でのみのもの。
だから、自分じゃなくてもいいよなと強く感じてしまうことはあった。
でもそれを悪と言いたいわけではないのは、傷つけようとはしていないからだと思う。
むしろこういうことに敏感になってしまう自分にめんどくささを感じてしまって。
認めてもらいたいと思うほど欲して知るわけでもなく、外見だけをみるなと思うほどひねくれてもない。
ただ、「あ、この人はここしか見ていないのか」と思う”遠さ”に億劫になってしまう。
それでも僕らは第一印象である程度のカテゴライズはするわけで。
それを冗談意外でわざわざ声にして届けることはしないように気をつけたいと思う。
逆に、細かいところまで見てくれている人もたくさんいた。
無意識でやっていたことにですら「元気をもらえた」という言葉をくれた人もいて。
中身も見てくれる人がたくさんいたからこそ、そうじゃない人が目立つように感じられただけで、そういう人たちを大事にしていこうと思ったわけです。
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かなり話は逸れてしまうけれど
偏見を含めた「決めつけ」をわざわざ言ってくる人は、あまり人脈がない人なのかという持論がある。
もっとわかりやすく言ってしまうと、友達が少ないんじゃね?と。
関わってきた人数が多ければ、いくらでも「例外」に出会うんですよ。
「女は感情的だ!」とかいう人がいるけれど
いくらでも理屈がしっかりした女性はたくさんいるし、むしろ感情的になって怒鳴っているおっさんもよく見る。
知っている人のサンプル数が多ければ多いほど、”そうじゃない人”も増えてなにもかも一概には言えなくなってくるはず。
もちろん傾向はあるけどね。
だから決めつけてしまう人はこれまでのサンプル数が少ないか、もともと相手の中身をみようとしていない人なんだろうなって。
そういう人と話したときは少し悲しくなるけれど、言葉以外の実害はないからスッと関わりを断つだけ。
私はあなたをこうやって見ていますと伝えるときは、中身のことも添えて伝えてあげられるように気をつけたいものですね。
また明日!