映画を観る大学の授業がおもしろすぎた

 

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どうも、限界大学生の黒川です。

 

なんか面白い授業あったかなーと振り返ったときに

あれしかないわ!!という授業があったので書き殴っていきやす。

 

 

決められた観点から映画鑑賞する授業


 

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その授業は映画鑑賞をして感想を書く授業だった。

周りの学生からはいわゆる楽単(取得簡単な単位)と言われていた。

 

てか全然経営学関係ないな。

 

 

数合わせでとった授業だったから軽い気持ちで初回に参加したのだけれど、それはもう衝撃が凄かった。

 

先生「食べ物を食べながら観ろ!」

 

へ!?!?!?

 

普通はありえないんですよ。

授業中に水飲んだだけでも退出させられる先生もいるもんで。

 

ましてや食事を推奨する人なんているんだ。。。

 

その先生曰く

「物語を観るときは美味しいものを食べて、その空間ごと楽しんで

さらには食卓を囲んでその映画の話をする。映画と食事は密接で、人間の営みなんだ。」

 

とアツく語っていたんですよね。

坊主で物語に出てくるような昭和のおっちゃんという感じ。

 

 

とにかくもう衝撃すぎて僕ら学生は一気に惹きつけられるわけですよ。

なんじゃこのおっちゃん、面白い。

 

授業をするその様は講義というより”語り”なんでした。

 

そんなこんなで始まった授業もまた独特でした。

 

千と千尋の神隠し」 ×アイデンティティ


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第1回目の授業は「千と千尋の神隠し」 を取り扱うのが鉄板らしい。

 

でも教科書には「アイデンティティ」の文字。

どういうこと?と少し疑問を感じた。

 

この作品にはいろんな意味が込められているけれど

「自分は何者なのか?」という問いに強いメッセージが込められているらしい。

 

ジブリ大好きなのでもう興味津々でございました。

 

 

アイデンティティとは

名前・性格・自分と言えば?・髪型・服装・なにが大切なのか・どんな生き方か

 

こんなことをまとめて「これが自分だ」と象徴するものを差すんだって(他人事)

 

 

作中の千尋が「自分とは何か」という問いを表していると書いてある。

 

千尋が湯婆婆に名前を奪われて千になり

千が自分を取り戻して千尋になる。

 

名前を奪われる前の千尋と、取り戻した後の千尋

全くの別人。

 

自分がなにものか分かっていない千尋

自分の意思がなく支配されている千

自分とは何か、自分の意思はなんなのかを得た千尋

 

千尋→千→千尋

 

この順番でアイデンティティと世の中を風刺しているんですって。

最初の千尋と最後の千尋は全くの別人。

 

超面白いじゃん!!!

このサブテーマは知っていたけれど、まさかアイデンティティという言葉が出てくるとは思わなかったなあ。

 

これまでの自分を失い、新しい自己を獲得していく中で

出会いと喪失がありながらも成長していく物語。

 

思えばいろいろなシーンがこのテーマとばっちり合っていて、自分たちの実生活にもちゃんと照らし合わせられるんだよね。

 

面白え!!!!!!って思った。

 

 

エンドロールで語りやがる姿がかっこいい照


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 授業で重要なシーンをとばしながら観るんだけど、エンドロールは確実に全部流れる。

 

呼んでいる〜むね〜の〜ど〜こかお〜くで〜

 

この映画はエンドロールが1番好きなんだよなあと思いながら観てたら

 

「『アイデンティティ』それは、自分とは何者かを位置付けることに等しい。僕らのアイデンティティは、他の誰かがいないと意味がない。他の誰かに知られ、識別されて初めて自分という存在ができる。

 

埋もれていないか?自分ってなんだ?僕たちは自分ではわからないことが多い。でも何かに挑んでいく中でそれが明白になっていくんだ。僕はみんなが自分はこういう人間なんだって言えるようになることを切に願っている。」

 

(ラ ラ ラン ラン ラ ラ)

 

泣くかと思ったわ。

おっちゃんカッコよすぎ(失礼)

 

アイデンティティなんて改まって考えることなんてないよなあ。

 

きっと髪型とか服装とかもそうなんだろうけど

もっともっと深いところにある自分らしさなんだろう。

 

でも教科書には「周り」という存在が合って初めて「自分」という存在に意味ができるとも書いてあった。

 

名前というアイデンティティは、他者と自己との”相互認識”の証明なんだな。

 

 

誰もが千尋であり、千である


 

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物語冒頭の洞窟に入る前の千は、誰でもないただの少女だった。

 

この「誰でもない」というのは千尋自身が”自分とは何か”という自己を認識していなかったから。そして自分の意思がなかったから。

 

透明になって消えてしまいそうになったり、自分の名前を思い出せなくなってしまった作中の千を思い出す。

 

不思議な世界に迷い込んだ千が再び自分の名前を思い出すまでの過程は、まさに新しい世界に飛び込んだときの僕らそのものだなと思った。

 

自分の意思もなく言われたことに従い続け、いつしか自分が誰かもわからず(もっと言えば誰でもいい代替可能な存在になり)、ただ淡々と生活を営むだけ。

 

昔、父親がこんなことを言っていたのを思い出した。

 

「仕事っていうのはね、この人じゃないとダメだっていうのが高ければ高いほどたくさんのお金がもらえるんだよ。」

 

こんなのは仕事じゃなくてもそうだな。

あなたじゃなければいけないほど友人との仲が深まっていくし

あなたじゃなければいけないほど必要としてもらえる。

 

「自分とはなにか」

 

他者と識別して自分のアイデンティティが光るように自分を磨いていけば、いつかは「私はこういう人間です」と自他ともに認める人になれる。

 

僕じゃなきゃいけない理由。

あなたじゃなきゃいけない理由。

 

そんなものはほとんどないのだろうか。

いや、そんなことはない。

 

なぜならそれは自分と「他者」が決めることだから。

 

 自分を含めた全員が「自分は(あの人)は必要だ」って思える状況が大切。

その一歩目として、まずは自分は何者なのかを自分自身で自覚することが1番大事。

 

それは、自分の意思を持つということ。

  

(そういえばハクも自分の本当の名前を思い出したときは湯婆婆に歯向かった後だったな)

 

 

 

単純にストーリーを楽しんだり、作品を通して伝えたいことを考えたり、なぜこう言う演出なのかを考えたり、物語の楽しみ方はいろいろで面白い。

 

自分とは何か、あなたは誰かを識別する機能を持つ「アイデンティティ

 

表面的な意味だけでなく、もっと深いところで”自分はこういう存在なんだ”と考えて、さらにそれを象徴するものとしてアイデンティティに帰結したときに本当の自分がわかるんでしょうね。

 

私の名前は千尋だ→私は〇〇な人間だ→〇〇な人間の名前は千尋だ。

 

最初と最後の千尋は意味がまるで違う。

最後の”千尋(自分とは何かを獲得した私)を探す旅”があの湯屋での日々だったんだろうし、これこそが自己の確立なんだろうね。

 

名前をただの識別記号にするか自分のアイデンティティにするかは全部自分次第ってこと。

 

あのおっちゃん元気にしてるかなあ。

 

んじゃまた!