自分の幸福度がわかるのは電車に乗っているときだ
電車に乗っていると、いろいろな顔をした人がいる。
スマホをみてニヤニヤしている人、寝ている人、イライラしている人、悲しそうな人、死んだ目をしている人。
彼らは1人で乗っていて、何人も同じ空間にいるのにまるで部屋に1人でいるみたいだ。
電車の一人分の場所はパーソナルスペースに近い。
1人だけれど1人じゃない。
そんな空間が広がっていて、人柄が出やすい。
でも、電車で舌打ちをするような人は24時間そうなわけじゃない。
そのときたまたま仕事がうまくいっていなかったり、誰かと喧嘩したのかもしれない。
行き場のない感情を抱えながら”共有の1人部屋”に入るから、邪魔されたような気になって知らない人にイライラする。
人のことばかり考えて流けれど、結局自分も同じだ。
知らない人に攻撃するほどの活力はないけれど、人がいるのに独りに感じるあの空間は気分によって大きく左右される。
高校へ行く電車の中はいつも片腕をあげるのにも一苦労なほど満員だった。
あの友達と早く会いたいときは人肌を感じられるほどリラックスして乗れる。
テストの日には満員電車に乗るのが下手なおじさんを軽蔑する。
周りが悪いのではなくてその日の自分がそうさせる。
嫌なおじさんが近くにならないようにくじを引く気持ちで乗っていたけれど、神頼みじゃなく自分次第だった。
「満員電車が嫌いな人は、自分の毎日が嫌いなんだ」
そう思うようにした。
トラウマがあるなら話は別だけれど、満員電車が気にならないくらい毎日を心躍るもので埋め尽くしてしまえば気にならない。
それからは電車に乗ったときの気分でいい1日かどうかを見極めるようになった。
気持ちよく乗車する日が1日でも多くなればいい。
楽しかったあの日々に満員電車の嫌な思い出のピースは存在しない。
車内の人を見ていれば誰かに乗せられているのか、好きで乗っているのかが分かる。
たとえ誰かに管理されている立場でも、好きで乗っている自分でありたいと思う。
今はドアの上のモニターから流れている無音のCMを見上げる余裕がある。
不意に横を向いて同じものを見ていた時になぜか恥ずかしくなって我に返る時もある。
あの瞬間に不幸なことを感じている人はいないだろうな。
自分が感じたものは「その瞬間」のせいではなくて、日々の生活の中でそう感じる自分がつくられている。
誰もいない座り放題の電車に心を踊らせるのか、シラけた空間にたそがれるのかはぜんぶぜんぶ自分次第。
人のせいにしていられるうちはまだまだ幸せな方で、気づいたら自分ではどうにもできないほどの無力さに絶望する。
だから満員電車がアトラクションと思えるような毎日をデザインしていきたい。
電車の行方は自分が逃げたい場所なのか、それとも移動時間がもったいないと思えるほど恋焦がれるものなのか。
またね〜