集団によくあるクソくだらない「伝統」が大嫌いだった。

 

f:id:kurokawamao:20210524222745j:plain

小さい頃からいろいろなものに所属して、その度に「伝統」というものにぶつかってきた。

 

伝統は「受け継いてきた大事なもの」として扱われる。

 

その中にはその伝統の良し悪しは関係なかった。

 

 

ルールや規範ではなくて、もっと細かくて小さなところにあるのが伝統。

 

「これは伝統だから」

「先輩が大事にしてきたものだから」

「そうやってやってきたから」

 

そんな思考停止なぶっ飛び理論を持ち出される度に、伝統というものはずいぶん腰が重いなと感じていた。

 

何回も何回も「こっちの方がいいですよね」と言っても、どんなにそれが正しくても「いや、伝統だから」で一蹴される。

 

 

伝統を重んじたい気持ちも深く理解できたけれど、自分にとって伝統はもっと良くできる可能性を捨ててまで、心を殺してまで大事にするものではなかった。

 

 

 

 

やや真面目な集団に身を置いていたとき、とあるスピーチを任された。

自分の成功体験もしくは失敗談を語る場所。

 

人は誰かが苦しんだ話の方が興味が持てると思って後者を選んだ。

そこでは実力に過信しすぎた話やサボって痛い目にあった話なんかをした。

 

発表者はいつも上の人にチェックをされる。

 

でも、修正されて返ってきたものに自分の言葉は一つもなかった。

 

 

「こんにちは。ここには僕を知らない方がたくさんいるかと思います。突然ですが僕は今日、皆様に笑われにきました。そして同時に、今日のスピーチを終えた後に”経験したからこそ伝えられた”と思うためにこの場に立たせていただきました。」

 

スピーチの冒頭文。

いつも同じような話ばかりなので、まずは気を引こうとして考えた導入だった。

 

返ってきた文章はこう。

 

「皆様こんにちは。本日は皆様のお時間を頂戴し、私の経験をお伝えさせていただきます。これは私が大学受験を控えた頃の...」

 

 

発表の日程が近くて代替者を用意できなかったので、”誰かが書いた自分のこと”をまるで自分の言葉のように喋った。

 

肝心な聴衆たちは居眠りをしていたり、逆に熱心な自分をアピールするかのように熱い視線を送ってきたり、聞いているのかどうか分からない人たちばかり。

 

空気を読みすぎてしまう性格のせいか、この場所に自分の経験や伝えたいことに思いを馳せている人は誰1人としていないことが手に取るようにわかった。

 

悔しい。

 

自分の言葉で伝えたかった。

 

それでも自分で書いたあの時の文章はあの場所からしたら”ハズレ者”の言葉たち。

 

 

大学の少人数授業で行われるプレゼンの発表では、スライドを読み上げるだけではつまらないと思い、アニメーションを多用して芸人さんがやるフリップネタのようなものを作った。

 

 

先生からの評価は低い。

 

「学生としてのTPOがわきまえられていない。」

 

それでも聴いてくれた生徒からのフィードバックは満点だった。

 

何が正しいのか分からなくなった。

 

 

「それっぽさ」を演じると、マンネリ化していて伝わらない。

だったら少し崩してでも心に届いた方がいい。

 

でも、そう考える自分を大人たちは許さなかった。

 

彼らが守っているのは伝統だった。

 

もっと簡単に言えば「そういうものだから」で済まされる世界。

 

自己表現などはその範囲内でのみ許されているものだった。

 

 

ものすごく気持ち悪かった。

この大人たちに屈するくらいなら社会不適合者とみられてもいい。

 

 

 

でもある時、考えが変わった。

 

伝統や”そういうもん”を変えられる人間に出会った。

 

思考回路は自分とかなり近い。

言っていることはほとんど同じだった。

 

 

でも、周りの人間の聞き入れる姿勢だけが明らかに違う。

 

死ぬほど考えた。

 

答えは単純で明解なものだった。

 

それは、「何を言うか」ではなく「誰が言うか」だった。

 

 

その人のバックボーンで皆が納得できれば自分のやり方が通る。

 

これに身をもって感じてから、立場にこだわるようになった。

 

 

組織の中では役職を求め、個人としても納得されるような振る舞いを心がけた。

 

それまではやりがいや面白さからやっていたものが、自分と周りにとって最適な手段を選べる立場、ある意味では肩書を「ゲームの装備」のように考えるようになる。

 

 

それからは幹部としての難しさに狼狽することになるけれど、これがやりたかったんだと感動すら覚えた。

 

 

 

でも、もっと上の存在がいた。

 

組織の上には組織がいて、年齢や社会的立場でそれ以上は上にいけない世界だった。

 

またか。

 

 

ある程度は自分たちで決められる。

でも、革新的なものは潰される。

 

そんな僕の行方は「もういいや」だった。

 

楽しいのにそう思えない。

 

あとちょっとなのに最後で潰される。

 

自分も周りもこっちの方がいいとわかり切っているのに、思考停止な大人に潰される。

 

 

わかるよ。大人だって周りからの目を気にしてできないことがあることは。

 

でも、明らかにやってもいいだろと思うこともたくさんあった。

 

そんな僕らは「つまんない」と戦意喪失した。

 

ここを我慢できる人だけが社会に行ける。

 

 

でも自分にとってそれは絶対に譲れないところだった。

 

この冒険心を殺してやっていくなら一生本気で楽しめないと思った。

 

 

 

そしてまた気付く。

 

「はじめから自分でやっちゃえばいいんだ。」

 

このとき、僕は”野良”で生きていくことを決心した。

 

 

この野良というのはフリーランスだけを指す言葉じゃない。

 

「どこにも所属せず、自分が決められることが多い状態を貫いて生きていく」

 

事務所や会社に入るとある程度安定して生きていける。

でも自分にとってそれは「できないことが増える」ことでもあった。

 

 

 

そして「野良」というのは、一匹狼という意味でもない。

 

必要なときに人を集めて、時に力を借りたり貸したりして、いつでも個人に還元される形で集まって動く。

 

”絶対的個人”の集団ならまったく問題がなかった。

 

これを死ぬまで貫いていきたい。

 

 

でもこれをするには何者かになる必要があった。

 

まずは楽しい毎日にする準備を楽しむことにします。

 

 

自分の幸福度がわかるのは電車に乗っているときだ

f:id:kurokawamao:20210522154623j:plain



電車に乗っていると、いろいろな顔をした人がいる。

 

スマホをみてニヤニヤしている人、寝ている人、イライラしている人、悲しそうな人、死んだ目をしている人。

 

彼らは1人で乗っていて、何人も同じ空間にいるのにまるで部屋に1人でいるみたいだ。

 

 

電車の一人分の場所はパーソナルスペースに近い。

 

1人だけれど1人じゃない。

 

 

そんな空間が広がっていて、人柄が出やすい。

 

でも、電車で舌打ちをするような人は24時間そうなわけじゃない。

 

そのときたまたま仕事がうまくいっていなかったり、誰かと喧嘩したのかもしれない。

 

 

行き場のない感情を抱えながら”共有の1人部屋”に入るから、邪魔されたような気になって知らない人にイライラする。

 

 

 

人のことばかり考えて流けれど、結局自分も同じだ。

 

知らない人に攻撃するほどの活力はないけれど、人がいるのに独りに感じるあの空間は気分によって大きく左右される。

 

 

 

 

高校へ行く電車の中はいつも片腕をあげるのにも一苦労なほど満員だった。

 

 

あの友達と早く会いたいときは人肌を感じられるほどリラックスして乗れる。

テストの日には満員電車に乗るのが下手なおじさんを軽蔑する。

 

周りが悪いのではなくてその日の自分がそうさせる。

 

嫌なおじさんが近くにならないようにくじを引く気持ちで乗っていたけれど、神頼みじゃなく自分次第だった。

 

 

「満員電車が嫌いな人は、自分の毎日が嫌いなんだ」

 

そう思うようにした。

 

トラウマがあるなら話は別だけれど、満員電車が気にならないくらい毎日を心躍るもので埋め尽くしてしまえば気にならない。

 

それからは電車に乗ったときの気分でいい1日かどうかを見極めるようになった。

 

気持ちよく乗車する日が1日でも多くなればいい。

 

 

楽しかったあの日々に満員電車の嫌な思い出のピースは存在しない。

 

車内の人を見ていれば誰かに乗せられているのか、好きで乗っているのかが分かる。

 

 

たとえ誰かに管理されている立場でも、好きで乗っている自分でありたいと思う。

 

 

 

今はドアの上のモニターから流れている無音のCMを見上げる余裕がある。

不意に横を向いて同じものを見ていた時になぜか恥ずかしくなって我に返る時もある。

 

あの瞬間に不幸なことを感じている人はいないだろうな。

 

 

自分が感じたものは「その瞬間」のせいではなくて、日々の生活の中でそう感じる自分がつくられている。

 

 

誰もいない座り放題の電車に心を踊らせるのか、シラけた空間にたそがれるのかはぜんぶぜんぶ自分次第。

 

人のせいにしていられるうちはまだまだ幸せな方で、気づいたら自分ではどうにもできないほどの無力さに絶望する。

 

 

だから満員電車がアトラクションと思えるような毎日をデザインしていきたい。

 

電車の行方は自分が逃げたい場所なのか、それとも移動時間がもったいないと思えるほど恋焦がれるものなのか。

 

またね〜

 

 

 

飲み屋のおっちゃんが教えてくれた命の大切さ

f:id:kurokawamao:20210518214854j:plain 

ひとり飲み歩きが好きな黒川。

1人でしっぽり飲むのが好きというより、知らない人との出会いと会話を求めている。

 

そんなある日1人のおっちゃんと出会いました。

 

だいたいいつも若さを羨まれたり、中年たちの説教を聞くのがほとんどで、それがなぜか心地良くて。

 

 

でもそのおっちゃんは違った。

 

だんだん話をしていくうちに、哲学っぽい話に。

 

 

「なあ兄ちゃん、なんで命が大事なのか知ってるか?」

 

ぽいというより完全に哲学だな。

 

酒が回っていて上手い返しが思いつかなかった。

 

正直に「わからないです」と答えた。

 

 

「俺もわかんねえ。」

 

歳の差ゆえにツッコんでいいのか分からなかったけれど、ずいぶん対等に見てくれていたので「なんすかそれ笑」と小さく返してみた。

 

 

「だってよ、自ら命を絶ったら周りの人が悲しむからっていう答えがあるけれど、それって命そのものが大切だって説明にはならねえだろ。この皿だって誰かにとって大事だったら命と同じじゃねえか。」

 

何も言えなかった。

 

確かに命は大事だ。

 

でも周りの人が悲しむからという相対的な理由ではなくて、命自体が大切である理由が答えられない。

 

「モノってのは誰かが必要としているから価値があるわけだろ。それが人に入れかわって、誰も必要とされない人ならモノと同じじゃねーか。」

 

言っていることは極端だけれど、なぜか府に落ちた。

 

きっとこの人はものすごく頭がキレる。

少し前のめりになって聞いてみた。

 

「じゃあなんで大事なんですかねえ」

 

「それはな、命は自分の中にあるからじゃねーかな。」

 

その心を聞いてみたくなった。

 

「だってよ、誰かから必要とされてなくても命は大事だって思うだろ?それは自分の中にあって自分だけのものなんだよな。自分が大事だから他の人の命も大事だと決めつけてるのかもしれなねえな。」

 

賛否ありそうな意見だとは思ったけれど、映画のセリフよりは理にかなっていると思った。

 

野暮な質問をしてみた。

 

「世の中には自分が大切じゃない人もいるわけじゃないですか。そんな人が目の前で死にたいって言ってたらどうします?」

 

もはや名言を求める大喜利ですらあった。

 

 

「ぶっ飛ばすかな」

 

やっぱ昭和の人はぶっ飛んでるなあと思った。理由を聞いた。

 

「死にたいんだったら俺がボコボコにする。だって死にたいんだろ?じゃあボコボコにしてもいいじゃん。それでやめてとかいうんだったら、まだ死にたくねえってことなのかもなって伝える。」

 

苦痛を感じずに死にたい人もいるだろうけれど、それを言うのは場違いだと思って控えた。

 

おっちゃんはこう続けた。

 

「死ぬってのは痛いとか怖いとかも感じれなくなっちゃうだろ。何もない無になるってこと。無になりたいから死にたいって思うんだろうけど、無理に生きるのが正解ってわけでもねえだろ。逃げ方を知らないから無を選んだだけで。」

 

話がこんがらがってきたなあと思いつつ、のばし気味の相槌で促した。

 

「命が大切な理由を聞かれたら、あ、まって、俺タバコ切れてるから買いに行ってくるわ。」

 

 

酔っ払いの話ってのは飛躍するもんで、このおっちゃんもコンビニから帰ってきたときにはもう別の話をしていた。

 

なんだかそれが「あとは自分で考えろ」と言われているような気がした。

 

 

 

おっちゃんの話は結局良く分からなかったけれど、言いたかったことはきっとこうだ。

 

「命が大切な理由は、ほとんどの人は死にたくないから周りもそうだと思っているだけ。自分の命が大切じゃないと心から思っていたら死ぬ前に一回逃げてみろ。どうせ生きてもいいかなって思える世界はどっかにあるだろ。そう感じたら命はそいつにとって大事だ。」

 

命そのものが大事な理由は説明できない。

大事かどうかは自分で決めること。

どうでもいいやって思ったら死ぬ前に一回逃げてみろ。

全部捨ててどっかに行くってのは死ぬよりも楽かもしれない。

 

明確な答えではないけれど、今まで聞いた「命は大切論」の中で1番納得できた。

 

 

そしてこれは、本気で死にたいと思ったことがある人からしか出てこない言葉だと思った。

 

生きることも死ぬことも否定しない、どちらの気持ちもわかっているから出る言葉。

 

 

もし死にたいと思ったときは全力で逃げてみようと漠然と決めた。

 

 

きっと世の中には死のうと思っても物理的に自分の力では死ねない人もいる。

 

実際に身を投げる人はこんなことを考える余裕もないくらい追い詰められていることも想像できる。

 

 

 

今も答えは分からない話だけれど、自分の命はこの世で唯一「自分だけの中にある」ものだから、自分の命が大切かどうかは自分で決める。

 

大切じゃないのであれば、大切かもと思える環境を探してみろ。死ぬのはそれからだ。

 

ってことか。

 

 

一見冷たいようにも思えるけれど、誰もことも否定しない優しい意見だとも思う。

 

死にたいって人がいたら思いっきりぶっ飛ばすのもいいかもしれない。

 

でも逆に思いっきり抱きしめて

「死んだらこの気持ちももう感じることができないんだよ」って言うのも誰かを救うことはできるかもな。

 

あくまで違う人間だから、干渉しすぎない人間の脳みそを少し覗けた気がして面白かった。

 

 

これだからひとり飲み歩きはやめられないな。

 

んじゃまた!

 

 

 

”「なんとなく」どまりの人は損をする”ことに気づけば人生が変わる

f:id:kurokawamao:20210517215638j:plain

子供の頃はよく先生に叱られて、そんな時にこう詰められる。

 

「なんでそんなことしたの!?」

 

そんなこと言われても...

 

「なんでって...なんとなくです。」

 

こう返したときにはきまって怒鳴られた。

 

 

 

イタズラをしてしまう心理があの頃の自分にわかるわけがない。

でも世の中はなんとなくでは済まされない。

 

 

大学に入ってマーケティングを学びはじめてから人生が変わった。

「なぜそれをするのか」を追求する世界だった。

 

ぶっちゃけマーケティングの内容はどうでもいい。

本質は思考回路だと思った。

 

 

そうして出来上がった僕は街を歩けば

「レイクの看板はなんであの色なんだろう?」

セブンイレブンのロゴはなんであのデザインなの?」

 

と考えるようになる。

 

企業の広告の意図が分かっても人生はさほど変わらない。

でも、ある「クセ」を手に入れた。

 

それは、”なんとなく”を分解する力。

 

 

人は言葉にしづらいものを感じたとき、「なんとなくそう思った」で済ませてしまう。

 

自分自身もまだまだ言語化できないことはたくさんある。

 

 

なぜそう思ったかは言葉によって整理されて本質が見えるようになる。

本質が見えると、自分にとって何が正解かがわかる。

正解がわかると間違いが減る。

間違いが減ると傷つくことが減る。

 

だから僕は思考を巡らせる。

 

 

「なんとなく良い」を信じて行動すると利用されてしまったり

「なんとなくいらない」と思ったらチャンスを素通りしてしまうかもしれない。

 

この判別ができるようになる。

 

 

たとえば、ルールはなぜあるか?を考えてみる。

メンバーを守るため?組織を維持するため?

 

間違いではないと思う。

 

 

ただ、最終的にはトップが損をしないためだ。

メンバーや組織を失ったらトップが損をするから、トップに1番都合がいいようにするものがルールだ。

 

 

誰がルールを作ったのか、何のためにあるのかに気づけなければ、”なんとなく”そこに居続けてしまう。

 

僕はまだ酷いトップに出会ったことはないけれど、自己防衛としては持っておきたい。

 

もしそのルールや仕組みが自分を搾取するものだったら?

ここに気づければ転職を視野に入れることができる。

 

こういう判断ができるかできないかで人生の中の「自己決定」の幅が広がる。

 

 

「なんとなく」は腐ったミカンみたいなもので、他の考えもなんとなくで済ませてしまう。

 

損をするくらいなら判別できる力を持っている方が絶対にいい。

 

 

でも、なんとなくってどう解決したらいいか分からない。

 

感情が豊かではないのに自分があのとき強くもった感動はなんなんだろう。

いまだに言語化できない。

 

 

だから僕は文章を書き始めた。

 

マーケティングは「なんとなくに訴えかける世界」

言語化は「なんとなくが許されない世界」だった。

 

許されない世界だからこそあのとき感じたもののトリガー(=自分を感動させるものは何か)がわかるようになる。

 

感情的な人を羨む自分にとって強く感じた感情を言語化することは、いわば自分探しの旅(ダサい)に近いものがあるのかもしれないなあ。

 

 

わからない・なんとなく

 

これを放置しておくと思考停止してしまうから悩みも増える。

 

 

でもだからこそ、自分の中の「なんとなく」っていうよく分からない感情を大事にして、その中に詰まっているものはヒントだと思って生きていきたいと強く思う。

 

自分にとって「なんとなく」を分解することは悩みを課題に変える魔法でした。

 

 

作文みたいになっちゃった。

 

 

んじゃまた!

 

初対面の人と打ち解けるためのキーワードは「共感」だと思う。

f:id:kurokawamao:20210516220405j:plain


 

 

どうも、この世で1番倫理観に欠けたネーミングは「親子丼」だと思っている黒川です。

 

 

今日はたまに相談されたりする「初対面の人と仲良くなる方法」について、僕が意識していることを書いていこうと思います。

 

 

なぜ会話が続かない?


 

 初めて会う人と話していてよく思うこと

 

「何を話せばいいんだ...」 

 

これ一択ですよね。黒川もよく思います。

 

 

例えば学校だったら新クラスになったとき。

職場なら新しく始めたときや新しい人と関わることになったとき。

 

なんだかお互いソワソワしたり、はたまた見定められているような気持ちになったり。

 

 

この人ってどんな人なのかな?という

様子見の期間があるわけです。

 

この様子見というのは、自分と相手にとってなにを話すのがいいのかを見定めている時間。

 

 

だったら、早く互いが分かり合えばいい!

 

 

「共感」を突く


 

 実は、「共感」さえあれば一瞬で仲良くなれると思っています。

 

一口に共感と言っても「あー。わかる」とかじゃないんです。

 

 

共感という言葉は「感覚を共にできること」じゃないですか。

だから、「あ、仲間だ」と思ってもらうことで一気に距離が縮まるんですよね。

 

 

どういうことかと言うと、

 

「あ、今打ち解けられたな」

 

って明らかにわかるタイミングってありますよね。あれを狙っていくんです。

 

 

 

例えば。

 

「最近出会ったばかりの人と話していたら、地元が同じであることがわかった。」

 

これで一気に仲良くなれる経験ある人多いと思います。それです笑

 

他にも「自分と同じ趣味を持っていることが判明した」とか!

 

 

 

会話しているときの雰囲気とかでも「あ、この人は仲良くなれるな」ってパターンもあるんですけど、そんな確率論に頼っていたらそもそも解決できないですもんね...

 

 

なのでここからは、実際にどうすれば「共感」を生み出せるのかについて自分なりのコツを書いてみようと思います。

 

 

 

共感=「自分と同じ」or「”好き”の感情」


 

話していて「この人とは気が合うな」という感覚はどうにもできない。

 

 

じゃあ他の角度から共感を生み出せないだろうかと考えたときに出した答えが

 

この「自分と同じ」「好き」という気持ちからでした。

 

 

初対面の人って自分のことを「こいつは敵か?味方か?」と無意識に考えるので、すぐに味方だと思ってもらうのに大事なのは、この2つを感じてもらう事。

 

 

つまり、会話の中でこれを実践するだけ。

 

 

 

でもそんなの話が続かないからわからないよ...

 

となりますよね。わかります。

 

 

なのでこの先は「同じor好き」を思ってもらうための会話術を紹介してみます。

 

 

YESかNO、もしくは1単語で返せる質問はしない


 

 「同じor好き」と思ってもらうには情報量が足りない。

もっと話さないと。でも会話が続かない...

 

そんな悩みをお持ちのあなた、僕もそうでした。。。

 

会話したい意欲はあるのに、なにを話したらいいか分からない。。。

 

そんなときに、なぜ続かないのかを振り返ってみたことがあるんです。

 

 

そしたら、単純な質問ばかりしている

 

 

という事実に気づいたんです。

 

 

A「なにが好きなんですか?」

B「ゲームです」

A「どんなゲームやるんですか?」

B「RPGとか」

A「、、、」

 

みたいな地獄()

 

 

最初の切り口は単語で答えられる質問はOKなんですけど、これじゃあただの一問一答ですよね。。。

 

 

YESかNO、1単語だけで返させない会話はこんなかんじ

 

A「なにが好きなんですか?」

B「ゲームです」

A「全然ゲーム詳しくないんですよね。でもちょっとやってみたくて。」

B「そうなの?面白いよ」

A「ですよね!なんか初心者でも楽しめるソフトとかあったら紹介して欲しいです笑」

 

みたいな感じです。

 

よく接客業界では

 

「自分と相手が話す割合は最初は7:3、後半は3:7になっているとベスト」

 

とよく言われています。(あくまで一般論)

 

通常の人間関係ではそこまでハードルは高くなく、6:4が入れ替わるか5:5でいいと思います。

 

 

つまり、相手に多く喋ってもらうコツが必要なわけです。

 

相手に多く喋ってもらうには、「ナゼ?・どうやって?」を聞いたり、理由や説明、プレゼンなんかをしてもらう。

 

 

興味を持っていたり好きなことを聞かれるとたくさん話したくなるじゃないですか。

 

なので相手にとって関心が強いトピックを選ぶのがいいですね。

 

 

相手の情報がよくわかったら


 

さっきの会話術でそれなりに相手のことを知れたら、今度は「共感」を生み出す順番になりますね。

 

さっきのゲームの話の展開としては、ゲームについて詳しく聞く感じ。

 

でも、これだけじゃいつかまた話題を変えるハメになります。

なので僕は、仲良くなるにはもう一歩必要だと思っています。

 

 

「Bさんって思ったよりもストイックですね笑」 

 

みたいな。

正直ここはなんでもいいのです。

 

大事なのは

 

「私はあなたをこう思っていますよ」と伝えること。

 

これってそれなりに続いた会話の中で言わないと不自然になっちゃうんですよ。

 

あなたをこう思っていますっていきなり言えないじゃないですか笑

 

 

会話が続いた後は自分の気持ちや印象を伝えるのに最高のタイミングなんですよね。

 

相手に良い印象を伝えらて嫌な人ってのは基本いないじゃないですか。

 

 

「私はこう思っています」

「褒めてくれた・わかってくれた」

 

これらが重なると、味方だと思ってくれます。

 

 

 

でもまだ共感ではなくない...?

その通り。

 

ここまでを簡単におさらいすると

 

話題提供→一言で返せない質問で相手に多く喋ってもらう→気持ち・印象・考えを伝える

 

といった感じ。

 

ぶっちゃけ好きだと思ってもらうのは感覚の話なので狙い打ちしにくいです。

 

 

だったら「自分と同じ」をゴリ押ししていくしかない。

 

 

ここで初めて「同意の言葉」を使っています。

 

 

散々話して思っていることも伝えて、最後に「相手に賛同する」こと。

もちろん嘘はいらないです。

 

相手がおもしろいと思っていたら「面白そう!」でいいんです。

 

 

 

ネタバラシをすると、これまでの会話術はいかに「賛同」に信憑性を持たせるかの作業なわけです。

 

 

だって自分が好きなものの話をしだした時に最初から「おもしろそう」って言われても薄っぺらく感じちゃうときもあるじゃないですか。

 

 

だから段階を踏んで、「本当に興味ありますよ」って気持ちに芯を持たせるか。

 

その「マジっぽさ」が大きければ大きいほど

 

「自分と同じだ!」と思ってもらえて、もっとうまくいけば好意すら抱いてもらえるんですよね。

 

 

でも小手先のテクニックなんかじゃ意味がありません。

 

本当に自分が感じたことに対して、表情や声の抑揚をつけながら誠意をもって関わらないと逆効果になってしまう。

 

 

相手のことを十分に引き出せて仲間だと思ってもらえたら、今度は自分の好きなものなんかの話たいことも話やすいし聞いてもらいやすくなりますよね。

 

ここから関係が始まっていくんだと思います。

 

 

こうやって共感から距離を縮める。

これが誰でもできるコツです。

 

共感は言葉からじゃないと生まれにくい。

 

だから、共感の言葉にいかに重みを出せるか。

 

これが距離を縮める上で大事にしているポイントです。

 

 

最後に


 

今日は自身の経験を活かして、コミュ力お化けと言ってもらえる僕が「初対面の人との打ち解け方」について書いてみました。

 

学校や職場でガラッと環境が変わったり、幾度となく初めて会う人と話す場面が多いはず。

 

 

会話が続かないんじゃなくて、なにを話したらいいか分からないだけなんじゃないかなって思います。

 

会話が続いただけじゃ距離は近くならないよなって思うんです。

 

 

こういう小手先のテクニックぽいことに、いかに真摯に相手を重ねられるか、相手はなにを求めているのか。

 

これが分かって伝えられることが真のコミュニケーション能力だと思います。

 

 

誰とでも気さくに話せるよってのはコミュ力でもなんでもないわけです。

 

 

誰とでも話せるキャラの人はそこのキャッチが上手なんだなって色々な人を見ていて思います。(黒川はまだまだ)

 

 

人と話すのが苦手な方、友達づくりに戸惑っている方のヒントに少しでもなれば嬉しい限りです。

 

 

んじゃまた!