”「なんとなく」どまりの人は損をする”ことに気づけば人生が変わる

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子供の頃はよく先生に叱られて、そんな時にこう詰められる。

 

「なんでそんなことしたの!?」

 

そんなこと言われても...

 

「なんでって...なんとなくです。」

 

こう返したときにはきまって怒鳴られた。

 

 

 

イタズラをしてしまう心理があの頃の自分にわかるわけがない。

でも世の中はなんとなくでは済まされない。

 

 

大学に入ってマーケティングを学びはじめてから人生が変わった。

「なぜそれをするのか」を追求する世界だった。

 

ぶっちゃけマーケティングの内容はどうでもいい。

本質は思考回路だと思った。

 

 

そうして出来上がった僕は街を歩けば

「レイクの看板はなんであの色なんだろう?」

セブンイレブンのロゴはなんであのデザインなの?」

 

と考えるようになる。

 

企業の広告の意図が分かっても人生はさほど変わらない。

でも、ある「クセ」を手に入れた。

 

それは、”なんとなく”を分解する力。

 

 

人は言葉にしづらいものを感じたとき、「なんとなくそう思った」で済ませてしまう。

 

自分自身もまだまだ言語化できないことはたくさんある。

 

 

なぜそう思ったかは言葉によって整理されて本質が見えるようになる。

本質が見えると、自分にとって何が正解かがわかる。

正解がわかると間違いが減る。

間違いが減ると傷つくことが減る。

 

だから僕は思考を巡らせる。

 

 

「なんとなく良い」を信じて行動すると利用されてしまったり

「なんとなくいらない」と思ったらチャンスを素通りしてしまうかもしれない。

 

この判別ができるようになる。

 

 

たとえば、ルールはなぜあるか?を考えてみる。

メンバーを守るため?組織を維持するため?

 

間違いではないと思う。

 

 

ただ、最終的にはトップが損をしないためだ。

メンバーや組織を失ったらトップが損をするから、トップに1番都合がいいようにするものがルールだ。

 

 

誰がルールを作ったのか、何のためにあるのかに気づけなければ、”なんとなく”そこに居続けてしまう。

 

僕はまだ酷いトップに出会ったことはないけれど、自己防衛としては持っておきたい。

 

もしそのルールや仕組みが自分を搾取するものだったら?

ここに気づければ転職を視野に入れることができる。

 

こういう判断ができるかできないかで人生の中の「自己決定」の幅が広がる。

 

 

「なんとなく」は腐ったミカンみたいなもので、他の考えもなんとなくで済ませてしまう。

 

損をするくらいなら判別できる力を持っている方が絶対にいい。

 

 

でも、なんとなくってどう解決したらいいか分からない。

 

感情が豊かではないのに自分があのとき強くもった感動はなんなんだろう。

いまだに言語化できない。

 

 

だから僕は文章を書き始めた。

 

マーケティングは「なんとなくに訴えかける世界」

言語化は「なんとなくが許されない世界」だった。

 

許されない世界だからこそあのとき感じたもののトリガー(=自分を感動させるものは何か)がわかるようになる。

 

感情的な人を羨む自分にとって強く感じた感情を言語化することは、いわば自分探しの旅(ダサい)に近いものがあるのかもしれないなあ。

 

 

わからない・なんとなく

 

これを放置しておくと思考停止してしまうから悩みも増える。

 

 

でもだからこそ、自分の中の「なんとなく」っていうよく分からない感情を大事にして、その中に詰まっているものはヒントだと思って生きていきたいと強く思う。

 

自分にとって「なんとなく」を分解することは悩みを課題に変える魔法でした。

 

 

作文みたいになっちゃった。

 

 

んじゃまた!