「多様化」とか言うけれど、いったん現場レベルで考えてみ
多様化だ!個人の尊重だ!
いろいろ叫ばれているけれど、それはいったいなにをもたらしてくれるのだろうか。
そんなに多様化がいいのであれば、いったん考えてみたいと思います。
社会全体でみたときに、性の対象が同性だろうがどんな髪の色をしていようがどんな格好をしていようが、誰かになにか言われる筋合いはない。
そういう意味の多様化の許容ならわかる。
というかそもそも知らないやつの許可なんていらないから、グチグチ言っている人はさっさとお門違いに気付くといい。
じゃああなたが普段生活する家庭・学校・仕事場などの人間関係に、マイノリティがいたとしたら?
同じことが言えるだろうか。
このとき初めてあなたに影響が出る。
最近言われているLGBTQなり肌の色なりはいても何も変わらない。
そもそもLGBTQが当たり前の環境で過ごしてきた僕にとっては、人格を指すものではないから人を判断するときのカテゴライズ自体がナンセンスだ。誰を好きになろうと肌が何色だろうとどうでもいい。
そうじゃなくて多様化を極めていくと、もっと誰にでも起こりうる些細なことに直面する。
やる気がある人もない人もいて、年功序列の考えの人とそうでない人、声が大きい人と大きな声が出せない人。
こういうのも多様化を言い出したらキリがないでしょう。
この人たちが同じ枠組みの中で共存できるのかな…と素直に思う。
多様化っていうものの側面には
「自分が気に入らない対象をも受け入れる」
必要があるのを忘れてはいけない。
多様化を否定して不当な扱いを受けている人を批判したい意図は全くない。
ただ、考えもせずに多様化を連呼し続けると、自分が生きづらい世界になってるかもよということ。
どんな人がいても成り立つ空間をつくるのはものすごく難しいです。本当に。
意見をどんどん言える人となかなか言えない人が一緒に会議をして、なかなか言えない人の意見をどうやって拾いあげる?
高学歴の人と勉強が全くできない人が一緒に仕事して、用語や仕組みを理解できるまで説明しなければ仕事が進まないけれどどうする?
多様化するということの本質はこういうことだ。
差別するのとも団結 とも違う、ここの中間が難しい。
性対象や肌の色などといった自分じゃどうにもできない分野はなんとしても受け入れるべきだ。というか実務に関係ない。
じゃあ、たとえばさっきの意見がなかなか言えない人は自分の努力でどうにかなる?
他人には分からないトラウマみたいなものがあるとしたら?ものすごい良い意見を持っていたら?
それでも意見を言わない。その人は切る?それともその人がなるべく発言できるような工夫をする?
ここが多様化の1番難しいところ。
僕にはこの線引きができない。
近年言われている「多様化」はそういうことじゃないよ。と言われても、もし多様化を受け入れるとしたらこういう事を考えなければいけない日がくるのですよ。
建物の中を警備・案内するような有志をやったことがある。そこそこ厳しいところ。
スーツの色は濃紺一択だったが、ある年から黒でも青でもよくなった。「多様化の尊重」が目的で。
拍子抜けだった。
「そういうことじゃなくね?」という言葉にできない思いが身体中を走ったのを覚えている。
でも、彼らの「多様化の線引き」はそこだった。
結果として僕はその団体には不信感を覚えたし、賢くないなぁというのが本音だった。
こういうのが、多様化を無理に謳わない方がいい理由。
もしこれが本当に困っている人、たとえば意見が言いづらい人がいたとして
「今日から誰でも意見が言いやすいように1対1で面談を設けることにした」と言われたとする。
でも蓋を開けてみれば面談相手がいつも怖いと思っている人で、思っていることを言えなかった。
もしこんなことが起こったら、もう無理だって思うだろう。
現場レベルで多様化するってのはこういうことですよ。
SNSで見かけるマイノリティの方々を受け入れるかどうかじゃないんです。自分に直接影響する生活圏の話なんです。
青島刑事の言葉を借りるなら、「淘汰は世間起こっているんじゃない、現場で起きているんだ」といったところ。
だから僕は、あまり容易く「多様化」とは言えない。その難しさを知っているから。
組織となった時点で、その組織を守るもしくは続けるさらには成長させていかなければならない。
そうなったときに、どこまでを許容し、どこまでを切るのかを考えなくてはいけない。
それは時に倫理の問題とは正反対になり、組織そのものやトップが絶対神にならざるを得なくなる。
多様化しようとして追い込まれてしまう人もいる。
だから気安く「多様化の時代だよね」は言えない。
逆にセクシャルやジェンダー、ファッションその他諸々は好きにすればいいと思う。誰にも迷惑をかけていないなら何をしようが自由だものね。
きっと今回書いたものは「多様化」ではなく「どこまで受け入れるか」の似てはなるものだ。
だからセクシャル・ジェンダー・肌の色などといった多様化問題のビッグタイトルとは少し違う。
でも同じ多様化だ。
同じだけど、違う。
いろいろな人を1つの場所に共存させる最適解を知らない僕らが無責任に多様化を謳っていいのかという話でした。
また明日。
優しい人が損をする世界だけれど。
「ふざけんじゃねーよ!」
店員の対応が気に入らなかったおっさんは声を荒げて言う文句。
その主張が正しくなくても、その場を沈めるために正しい方が我慢をしなければならない。
こいつが周りからどんな軽蔑の目で見られようが、本人が気にならなければ結果的に得をしたのはおっさんの方だ。
「絶対にいやだ!」
これまで望み通りにさせているのに、自分の損が確定したときには自分はやらない好都合人間。自分のワガママが許される環境で生きれてきたアマちゃんだ。
こんなのがいると正義なんてものはなくなって、言うことを聞いてあげないと進まないから結局正しい方が本当は声にしたい罵声を飲み込む。
こうやって世界は回っている。
ほんの一握りの畜生のせいで、多くの人が自分を殺して生きている。
自分のワガママが通ずのに誰かを犠牲にしていることに彼らは気づかない。
これだけ無秩序で道徳心のないような人が許されるなら、相手の顔に拳をぶつけてもおあいこでしょう。本気でそう思う。
歯には歯を、暴論には暴論を。
なんでこれがダメなのか。
物事が終わってしまうから?法律が許さないから?
いやいや、頭のおかしい人を裁いてくれよ。
自分勝手に生きている人はその場で現行犯逮捕のように取り押さえられればいい。
言葉を選ばずに言えば、みんなで切磋琢磨している空間にお前はいらない、出ていけ。そう言ってしまいたくなる。
でも、それはしない。そうじゃないと何かしらが終わってしまうから。
結局我慢しなければいけない。
そんな、ワガママな人が得をして、優しい人だけが損をする。
これがこの世界を成り立たせている裏側だと思う。
ずっと我慢してやっていれば必ず報われる?
いや違う、ワガママを言った人がその場で損をしないと気が済まない。
時間が経って、自分が優位に立てたら解消されるものじゃなくて、”あのとき”に直接タイムリープして思う存分血眼で思いのままに声を荒げてやりたい。
気づいていない、あるいは見ないようにしているだけで、みんな心の中にそんな自分を飼っている。
そんな僕たちは、いつしか「我慢した方が楽だな」と気づく。
おかしいでしょ。それが大人だねって言われるんだから。
じゃあ生活が自立したおっさんたちはどうなんだ。
あれも紛れもない大人でしょう。
えらいねえらいねって、そんな言葉はあの時の自分を救うものにはならなくて、じゃああの理不尽な輩は一体誰が裁いてくれるんだ?
まるで幼い頃の「先生に言ってやる」が恋しくなるような気持ちになって、あの時我慢したのにこの「大人な対応」が褒められることで2度自分を殺したことになる。
独りよがりでワガママを言い続けた人はいつか痛い目をみる。そんなことは知っている。
じゃあワガママを言われてきた当人たちは、沸騰寸前で火を止めた自分を、どう認めてあげればいいのか。
僕が出した答えは、自己愛だ。
他人から忍耐を褒められても、受け入れたくない自分に気づいて嫌になる。
だから、自分は理不尽星人に耐えられたとき
「自分ってこんな人を気持ちよくさせて終わらせられる人間だ、よかった」
と済ませる。
ここに心の汚さがあることは否めない。
でも、言葉にはせず思うだけならタダでしょう。
自分が受けた害を思い出して、あの時やり過ごせた自分に酔うことくらい罪にはならないんじゃないのかな。
そうやって殺した自分を弔って、我慢できることを武器のように思えたら「経験できてよかった」って感じられるかもしれない。
あのときのワガママさんを裁いていたら、今となりにいてくれる人はいなかったかもしれないしね。
感情を犠牲にして得るものは、その時は気づけないかもしれないけれど、未来への投資をしていると思いこむしかないんだよね。
これでもまだあの時感じた憤りをチャラにはできないけれど、恨むくらいなら今自分がしたいことに時間をつかった方が幸せでしょう。
そんな人が自分の視界に入る中で生きているんだったら、辞めてしまった方がいい。
人はそれを逃げたって呼ぶんだろうけどそうじゃない。
アイツから人が離れていっただけ。
人に迷惑をかけてワガママをいうんじゃなくて、自分の権利の中でワガママに生きるのならそれは自由だ。
逃げたとしても昼間やっていたニュースはどうせ明日もやるし、どっかの貧しい国の子は明日も苦しむんだから、それほど世界は変わらないもんさ。
自分の小ささを知ったら不思議となんでもできる気がしてくる。
周りに迷惑がかかるんだから辞めないでって言うなら、その原因を潰してから言ってくれよな。
人に優しくする時は自分を傷つけることもあるから、どっかで採算合わせていきたいですね。
また明日!
ところで「ファン想い」って何だろうか
最近はSNSでの活動者が増えてきた。
ファンの人たちからはこんな声が聞こえてくる
「このグループってファン想いだよね」
調べてみるとSNSで反応が返ってきたり、ファンへの対応が細かいような人たちだ。
一見すると、距離が近くてファンはそりゃあ嬉しく思うことをやっている。
でも、なんだか違和感を感じて。
このモヤモヤを一言で表すと
それは規模が大きくなっても続けられるのだろうか。
または、全員にまんべんなく振る舞えるのだろうか。
人気のない頃にいろいろしてもらっていたファンからしたら、好きな対象の人気が出て距離が遠くなった時に同じ対応をしてもらうことができなくなる。
そんなときにそのファンはこう思うはず。
「昔はやってくれていたのに、変わってしまった」と。
果たしてこれは長い目でみてファン想いなのだろうか。
ファンが100人くらいのときはなんとかなるだろう。
ただそれが、1万人、10万人、100万人...
と増えていったときに、必ず限界をむかえる。
だったら最初から距離感は大事にした方がいいんじゃないかと思う。
最初からここまではします・これはしませんというのをファンも演者も分かっていたら、期待しすぎたり求めすぎたりすることもなくなる。
表面だけみたら距離が近い方が大事にしているように見えるんだけれど、最初から人気があってもなくても同じことをやっている方がよっぽどファン想いのように思える。
たとえば、全員にはできないけれどランダムでやることが前提な活動だったらまだいいかもしれない。
じゃあ結局、ファン想いってなんなんだろう。
これは演者側の都合なのかもしれないけれど
「対1ではない」ということ。
ファンにとっては好きな対象は対1だけれど、ここの相違点が「変わってしまった」を引き起こすと思っている。
そして演者側は仕事、ファンは趣味という大きな違いが歪みの原因にもなっているのかなって。
演者側は”趣味じゃない”から、規模が大きくなれば動き方が変わってくるのは仕方のないこと。
ただその変化は、ファンにとっての「趣味要素」が失われてしまうのであれば、最初からできないものはできない方がいい。
「前はずっと話せて近い距離で応援できた」
これが応援する、好きな理由だったとしたら規模が大きくなったら理由が消える。
そうなったら「変わってしまった」と思うのは至極自然なこと。
だから、本当のファン想いというのは「ずっと応援し続けられる」だと思う。
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「好き」という感情は、それだけを切り取ったら「求めること」だけ。
綺麗な感情ではあるのだけれど、それが必ずしも相手のためになるとは限らない。
たとえばクラスに好きな人がいるとき、断られ続けているのに告白を続けるのは迷惑ななんじゃないかとも思う。
好きという気持ちはあくまで一方通行のものだから、そこには多少の愛情が必要なわけで、求めすぎないことは絶対に必要になってくる。
演者はファンのものではないし、ファンは演者のものじゃない。
お互いが誰のものでもない存在で、対1じゃないからお互いが求めあったらやっぱりどこかに天井がある。
つまり、演者がファン1人を大事にすることが別のファン1人に損させる可能性がある。
インターネット上で行う活動はお金をもらうのではなく時間をもらうものなので、1秒の価値は変わらない。
だからここは平等であるべきなのかなと。
ダイレクトでファンからお金をもらうのものであれば金額に応じての見返りは多少あった方が応援しがいがあるけれど、時間をもらうものであればまた違ってくる。
「ファンが大事なのでみんなとのふれあいを大切にしています」
10万人とまんべんなく触れ合えるのだろうか。
それができないのであればこの言葉は筋が通らなくなる。
リアルイベントでサインを求められたら全員にはできないけれどできる限りする?
街中で出会って握手を求められたらする?
こういう難しいラインがある。
どこまでがファン想いの線引きかはわからない。
でも、普段の活動に関しては
「ここまではできます、これはできません」
と演者側がなんとなく示してあげるのが1番集合体としてのファンにとってはためになると思っている。
今はできるけれど、この先続けられるかはわからない。
できなくなった時に失望させてしまうのであれば、最初からない方がいい。
これが僕が思う1番いい距離感であって、その上でお互いが楽しめたらベストだな。
もちろん、互いが感謝を持った上で。
「応援してやっているんだからこういうことしろよ」スタンスのファンがいれば
「頼んでないです」となるし
逆に演者側が楽しませずに「ファンだったらこれをやってくれ」スタンスだったら「は?なにそれ」となる。
違いが自分の選択で活動したり応援するという自己選択が前提の気持ち、そしてある意味どちらも上じゃない対等の関係を築きあげていくのが理想の「伸び方」なのだろう。
やっぱり少し冷たい考え方なのかなというのが頭を過ぎるけれど、もたらす結果を考えたら近すぎない方がいいと思える。
僕にとっての今の活動のファンというのは
「僕が好きでやっている活動を応援してくれる感謝すべき存在」で
ファンの人に
「こいつがやっていることは自分にとっては時間を使ってもいいかな」
と思ってもらえるように務めることだけ。
価値提供をしているという思いそのものが奢りになってしまうので、あえて自分の好きでやっているというところにとどめたい。
あなたのためにやっているんですよとお互いが思うのはとってもいいこと。
でも、それだと「いや、求めているものが違った」となるタイミングがくる。
だから、お互いが”自分のために”活動したり見たりするのがどっちも幸せになれる。
小難しく言ってみると「自己中心的利他の相互作用」かな。
これを再現するのは実はすごい難しい距離感だと思うんだけれど、やっぱりこれがお互いにとっていいよね。
僕ら演者側はやっぱり数を狙わなきゃいけない側面があるけれど、大きい数は1の積み重ねだから、1を置き去りにすると破滅に向かってしまう。
数を追いかけることには変わりないから、1万、10万を目指さず1を集める意識でやっていきたいですね。
普段から会える演者、画面の中でしか会えない演者、そもそも姿をみることが難しい演者、いろいろあるけれど、それぞれに適した距離感を演者もファンも長い目で見てわきまえていきたいですね。
また明日。
第一印象でカテゴライズされると苦しくなることがある
「〇〇系が好きなんだよね」
自分に好意を向けてもらったときにこんな言葉を添えられることがある。
このとき、僕はこう感じる
(それって自分じゃなくてもいいよな)
こういうのが好きだからあなたが好き。
相手に悪気はまったくないのはわかる。
でもなんだか、その気持ちはこっちに届いてこない。
人には承認欲求というものがあって、噛み砕くと
「自分じゃなければいけない理由が欲しい」
ともとれると思う。
自分も例外なくそうだけれど
自分の好きなカテゴリーは〇〇だからあなたが好き
と言われてしまうと、中身を見てもらえていない気持ちになる。
嫌というほどじゃないけれど、まったく嬉しいとは思えない自分がいる。
それに対して、自分を知ってくれている人から「あなたって〇〇だよね」
と言われるのは苦しくならない。
ここの違いってなんなんだろう。
自分を知らない人から”こういうタイプの人”だと頭の中で早々に処理されてしまったことが苦しくなるんだろうな。
あ、もう中身はあまりみる気がないんだろうなって。
だから、冗談やネタで言われるぶんには全然いい。
人によっては嫌味に感じるかもしれないけれど、容姿ばかりを褒められすぎるのも同じ理由でちょっと寂しさを感じることがある。
容姿端麗な女友達が言っていた言葉を思い出す。
「男性はたくさん言い寄ってきてくれるんだけれど、カラダ目的だったり、私がどういう人かを知ろうとしてくれる人は少ないんだ」
これに近いのかもしれない。
容姿ありきの人気商売をしていたから、お客さんに言われて嫌だったということはない。
ただ、自分の存在意義を保つための媒体にされていると感じたことは正直あった。
こんな時も同じことを思う。
「それって俺じゃなくてもいいよな」って。
楽しみ方はお客さんの自由なのだけれど、それ以前にお互い人間で、接客というある種のエンターテインメントの範囲内でのみのもの。
だから、自分じゃなくてもいいよなと強く感じてしまうことはあった。
でもそれを悪と言いたいわけではないのは、傷つけようとはしていないからだと思う。
むしろこういうことに敏感になってしまう自分にめんどくささを感じてしまって。
認めてもらいたいと思うほど欲して知るわけでもなく、外見だけをみるなと思うほどひねくれてもない。
ただ、「あ、この人はここしか見ていないのか」と思う”遠さ”に億劫になってしまう。
それでも僕らは第一印象である程度のカテゴライズはするわけで。
それを冗談意外でわざわざ声にして届けることはしないように気をつけたいと思う。
逆に、細かいところまで見てくれている人もたくさんいた。
無意識でやっていたことにですら「元気をもらえた」という言葉をくれた人もいて。
中身も見てくれる人がたくさんいたからこそ、そうじゃない人が目立つように感じられただけで、そういう人たちを大事にしていこうと思ったわけです。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
かなり話は逸れてしまうけれど
偏見を含めた「決めつけ」をわざわざ言ってくる人は、あまり人脈がない人なのかという持論がある。
もっとわかりやすく言ってしまうと、友達が少ないんじゃね?と。
関わってきた人数が多ければ、いくらでも「例外」に出会うんですよ。
「女は感情的だ!」とかいう人がいるけれど
いくらでも理屈がしっかりした女性はたくさんいるし、むしろ感情的になって怒鳴っているおっさんもよく見る。
知っている人のサンプル数が多ければ多いほど、”そうじゃない人”も増えてなにもかも一概には言えなくなってくるはず。
もちろん傾向はあるけどね。
だから決めつけてしまう人はこれまでのサンプル数が少ないか、もともと相手の中身をみようとしていない人なんだろうなって。
そういう人と話したときは少し悲しくなるけれど、言葉以外の実害はないからスッと関わりを断つだけ。
私はあなたをこうやって見ていますと伝えるときは、中身のことも添えて伝えてあげられるように気をつけたいものですね。
また明日!
理科の先生が最後の授業で放った言葉「測定できないものは存在しない」
こんにちは、黒川です。
中学卒業間際、最後の授業で卒業生に贈る言葉みたいなのあるじゃないですか。
そこで理科の先生が言ったんです。
「測定できないものは存在しない」
この言葉の意味は、目に見えず、科学的に証明されていない曖昧なものはそもそも存在しないということ。
世間体や周りの目なんてあって無いようなものだから、気にせず好きなことをしなさい。ということを彼女は伝えてくれた。
とても理科チックで洒落の効いた言葉だったから、あの瞬間をよく覚えている。
屁理屈を言えばこの言葉は否定できる。
でも最近になってボディーブローのように後々効いてきた。
僕らは一体、いつもなにを怖がっているんだろうか。
就職の年齢の僕もたまに言われる。
「就職しないとか人生甘く見過ぎ笑」みたいに。
あなたに迷惑をかけただろうか。
就職しなかったら死ぬのだろうか。
雇われることだけが仕事なのだろうか。
彼らが僕に物言いをする理由は「気に入らないから」に他ならない。
ところであなたの選択や行動は、そんなに人に迷惑をかけているのだろうか?
「言ってくる人」は目に見えるかもしれないけれど、肯定してくれる人も同じくらいいる。出会っていないだけ。
許可なんかいらないから、勝手にやってみればいい。
先生が言ったように目に見えない敵と戦っているのなら、そもそもその敵は幻想かもしれない。そう言っている自分も、”測定できないもの”を意識している。
”測定できないもの”は時代によってある程度「見える化」された。
でも僕らが忘れたくないのは「あなたには関係ない」と強く思うこと。
そう思えた瞬間に攻撃している方が圧倒的に悪だ。
他人の許可なんていらないし、ジェンダーや肌の色が尊重されるのであれば生き方だって尊重されるべきだ。(納税はしような☆)
とっても理系思考なこの面白い言葉を自分にどう活かせるだろうか。
もともと世間体はどうでもいい性格なので、それ以外のなにか。
先生は進路を決めるときにこの言葉に出会ったらしい。
きっとこの先の「選択の壁になるもの」だろう。
僕たちはいつも”できない理由”を探す。
先生にはそれが世間体だった。
僕の場合は時間だ。
寝るまも惜しんで自分よりやっている同世代はいくらでもいる。
だから競争するんじゃなくて、彼らから活力をもらう。
マイナスの理由はだいたい思い込みだ。
あの時の先生の言葉が反芻されて、少しずつ自分の体に馴染んでくる。
やりたくなかったら辞めればいいし、やりたかったらやればいい。
自分で決めれる環境を無理やりつくったから、存分にこの贅沢を堪能していきたいと思う。
あなたの選択の壁は何でしょうか。
それは測定できるでしょうか。
これを常に問いかけていつか「お前らには関係ないだろーーー!」
くらいに思えるような人になれたら強いな。
んじゃまた!