”飲み行こっか”ができない酒飲みの僕が気づけたこと
酒が飲みたい。店で飲みたい。
まるで酸素と二酸化炭素を入れ替える呼吸みたいに、1日の疲れや日頃の鬱憤を吐き出して、その代わりに喉に酒をデタラメに流し込みたい。
物事の判断がよく分からなくなってきた頃に、後々恥ずかしくなるほど感情に任せて意味のない会話がしたい。
とは思うのだけれど、酒のない世界もそれはそれでアリだなと思ったことがあった。
先日、ずっと会いたくて会いたくて仕方がなかった人に会ってきた。
空白の期間にあったお互いのことやこれからのことを話した。
久しぶりに見たその人は前よりもちょっぴり大人になっている気がして、知りすぎているくらいの人なのに新鮮ですら感じられて。
「変わってしまったな」とは違う変化の心地よさに身を委ねて話していたのです。
それもお酒なしで。
高校時代から長い時間を過ごしていたから素面でも話せるのは知っていたし、お互いの歴史に重要人物として登場するほどだったけれど、なんとなく思った。
「あ、自分が何を感じているかがわかる」
お酒が当たり前に飲めた頃は一種の媒体でもあった。
人とコミュニケーションをするときに心を通わせるための道具の一つとして。
「乾杯はセックスだ」
この言葉は偉人クロカワ=マオが残した言葉だけれど、恋人が愛を確かめる行為のように
「私はあなたに心を許して語らいをしよう」というメッセージを込めた行為だと思っている。
でもその時は、乾杯がなかった。
酒がなければ話せないなんてことはない。
卓上の花瓶に花が生けてある方が食事が華やかになるくらい。
なんだろう、お酒がない状態で語り合うことに慣れていなかったせいか、自分が感じていることがはっきりとわかるような気がして。
もちろん酒を流し込んだときの方が心の起伏はあるのだけれど、それと同時に判断能力も下がるから。
思えば気持ちよく酔っ払ったときの感情たちは今も同じように感じることができない。
そのときも、これを書いている今も、自分・相手・空間すべてを、一寸の狂いもなく味わえるんです。
これがとても嬉しくて、その人は無感情の僕の心をいとも簡単に揺さぶることができる人だから、そんな自分にも気づくことができた。
これって酒が当たり前に出てくる状況だったらきっと気づけなかった。
もちろん常に飲みたい自分がいるのだけれど、妥協じゃなくてあれはあれで至福だった。
そのとき行ったのは水タバコ屋さんだったけれど、あれはすごいな。
何回か行ったことがあるけれど楽しみ方がずっと分からなくて、「チル」ってなんじゃという感じだった。
店内の雰囲気もろともちゃんと考えられていて、スーパー銭湯に行ったときみたいな癒しの空間に近かった。
そもそも喫煙者だから味がする水蒸気にお金を出すのが分からなかったけれど、空間を買っているんだなと思ったのです。
店員の兄ちゃんもぶっきらぼうでタメ口で接客するような感じでね。
そういうのは結構好きだから、居心地いいけどちょっと怖いなとも思ってて。
でも寒いなーと思って肌を擦っていたらブランケットを手渡してくれるような一面にしてやられましたな。
なんの話しているのか分からなくなってきた。
とにかくどこか酒頼みなところがあって、飲みながら語りあうことこそが乙だと思っていたけれど
そうとも限らないんだなと。
シラフだからこそ自分の気持ちが手にとれるんだなと思ったのです。
「これがないとできない」ことから一旦離れて
それナシでやってみるとまた新たな気づきが生まれるかもしれないですね。
こうやって関係なさそうなことから学びを得られるのは自分の面倒くさいところでもあり、長所でもあるのかな。
今はブログサイトを制作中なので完成したらエッセイの連載でもやってみたいな。
それではまた!